山崎 よし いえ。 BushoCard/3305山崎吉家

山崎

山崎 よし いえ

今回は越前朝倉氏の宿老、 山崎吉家(やまさきよしいえ)。 前回紹介した 山崎長徳(やまさきながのり)の叔父と言われています。 「」で登場するかどうかは の朝倉氏仕官時代の描かれ具合によるかも? では今回のお品書きはこちらです。 また 過去に紹介した「」にちなんだ武将たちは 以下の一覧記事にまとめてあります。 その他 今までに紹介済みの戦国武将たちはこちから確認できます。 まだ読んでいない武将の記事がありましたら是非チェックしてみてくださいね。 1.山崎吉家とは 生年は不明。 通称 新左衛門尉。 父は の代から越前朝倉氏に仕えていた 山崎長吉(やまさきながよし)。 山崎吉家の名前が資料に出てくるのは、 1531年8月の享禄の錯乱(きょうろくの)で 加賀へ朝倉軍が出兵した際が初見らしいです。 この時、朝倉家随一の名将 (あてき)に従って 今湊に出陣しています。 シリーズなんかだと、この時を初陣ぐらいの年代として扱っているのか 吉家の 生年が1516年に設定されていたりします。 といえば、 死に際にの行く末を見たかったと言い残したことでも有名です。 と同じく信長の才能をいち早く見抜いていたと言われています。 そして宗滴は朝倉氏3代に渡って参謀として朝倉家を支え、 戦においては朝倉軍の大将として各地を転戦し武名を轟かせていました。 明確にはわかりませんが、 おそらく宗滴存命の間は 山崎吉家は宗滴指揮下で槍働きをしていたのではないかと思われます。 なぜならば1555年にが無くなる前の攻めの際には 病に倒れた宗滴の代わりに大将となった朝倉景隆と共に吉家も出陣していますし、 宗滴が亡くなると 宗滴が担当してきた越後・上杉氏との交渉役を引き継いでいるからです。 とが対立するようになると、 近江の安養寺や美濃の遠藤氏を通じて とも交渉をしています。 1567年の 堀江景忠(ほりえかげただ)が謀叛を起こした際には、 魚住景方(うおずみかげかた)と共に 討伐軍の大将として派遣されています。 (勝敗はつかず、堀江父子の亡命で) 戦での戦い方や他家との外交交渉などは、傍にいた大将・から学んだのでしょう。 ちなみに、1568年8月に将軍家再興を目指していた が越前朝倉館を訪れるのですが この際には山崎吉家も謁見していて 年寄衆として挨拶しています。 ちょっと話はずれるけど、もこの頃は朝倉氏の家臣として仕えており の仲介によってがの上洛を手助けすることになります。 この辺は「」での山崎吉家登場ポイントかもですね。 1.1.から始まるとの激戦 1570年の織田・徳川連合軍との戦いであるでは 吉家は 朝倉本隊第1陣としてを進発します。 しかし戦局は織田・徳川連合軍が序盤から優位に進めていて 結局、 は陥落してしまいます。 そのまま織田・徳川連合軍は朝倉家の本拠地である を目指そうとしていましたが、 ここで状況が一変します。 信長の 妹・を妻に娶った がを裏切って の味方となり越前にむけて援軍を出すのです。 が信長にこの事態を知らせるために 両端を紐で結んだ小豆袋を送った逸話は 多くので定番のシーンとなっていますよね。 このままでは越前側と近江側とで挟み撃ちにされた結果 大打撃を受けかねないことを悟って信長はすぐさま撤退を決意。 この 金ヶ崎の退き口とも言われる織田軍の撤退戦は 信長の戦いの中でも最も最悪な撤退戦と言っても過言ではないでしょう。 しかし、 この撤退戦での朝倉軍の追討が甘かったことが原因で は命からがらでも京都へ生き延びれたとも言われています。 朝倉家もこの当時は一門内で不穏な動きがあったりして 決して家内が統一できていたわけじゃないことが原因なんですよね。 名将・の教えを受けていた吉家としても この挟撃によってあわよくばを仕留めたかったことでしょう。 織田・徳川連合軍が撤退すると 5月には吉家は総大将・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)の下、 近江へ出陣し美濃との国境まで進出。 赤坂・垂井などを放火した後、城砦の修築をするなど との次なる戦に向けての準備をした上での帰陣します。 これがの直前の6月15日。 そうなんです、 吉家はには参戦していないのです。 思ったよりも速くにが攻めてきてしまったのでしょう。 吉家が参戦しなかったことがどこまで影響ががあったかはわかりませんが、 織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の戦いは激戦の末、 織田・徳川連合軍の勝利となります。 ただし、両軍ともにこの戦で多くの戦死者を出しており、 特に浅井家は ・ 遠藤直経(えんどうなおつね)を始めとして の弟・ 浅井政之、浅井氏庶流で宿老の 浅井政澄、 弓削家澄、 今村氏直など 浅井家中枢を担ってきた武将が数多く戦死しています。 朝倉家においても、 武勇に秀でた猛将として名高い 真柄直隆(まがらなおたか)、 直隆の息子・隆基(たかもと)、 直隆の弟・真柄直澄(まがらなおずみ)が戦死しています。 1570年8月には摂津中嶋に進出してきた (・・)を討つべく が岐阜から出立すると、 の要請で吉家は援軍としてに入ります。 この際に、後に 山崎丸と呼ばれる砦を築いています。 山崎丸以外にも戦に備えて砦を築いて攻撃に備えていました。 そして 9月には近江に進出してきた朝倉軍本隊と合流し、 朝倉景健(あさくらかげたけ)と共に先陣を賜ることに。 そして浅井軍・勢と共に西近江を南下していき、 坂本の地でと再び相まみえることになります。 坂本の戦いでは織田軍の 各務元正(かがみもとまさ)や 肥田忠政(ひだただまさ)らの奮戦によって 宇佐山城を落城させることは叶わなかったものの の・ (もりよしなり)、 (おだのぶはる)、 青地茂綱(あおちしげつな)らを討死させています。 この戦いはにとっては大事な家臣を失う結果となった上に 反信長勢力の挙兵を許して信長包囲網が結成されるという にとっては厳しい状況が出来上がってしまいます。 ただし朝倉家としてもの侵攻を食い止めることはできたものの、 新たに領土を得ることはなかったし、を窮地に追い詰めながらも 金ヶ崎の退き口の時と同様に が傾く程のに大きな深手を与えることはできませんでした。 ここら辺の詰めの甘さがなければ、山崎吉家だけではなく 朝倉家の家臣たちももっとが上がったんじゃないのかなぁと思ったりしたり。 1.2.吉家、刀禰坂の戦いにて散る 志賀の陣の後、包囲網によって多くの諸大名やが反信長勢力として 信長に対抗しますが、当時戦国最強と謳われるほどの実力者であった までもが西上作戦を決断して京を目指す動きを見せ始ます。 1573年のでが散々な目に遭った話は有名ですよね。 信長包囲網を敷かれているとはいえ、浅井氏・朝倉氏との戦いでも 内部工作が効いてきて徐々に戦局が有利に傾いてきているところでしたから、 を順調に侵攻していく武田の軍勢は 信長にとって後背を狙われる最大の脅威だったでしょう。 ところが、 4月に武田軍は京をそのまま目指すことなく甲斐に撤退していきます。 当主・の病状が思わしくなく、療養のために引き返すしかなかったのですが その 撤退の道中でが亡くなってしまうのです。 この信玄の死去は、朝倉軍にとっても大きな痛手となったはずです。 背後から狙われる脅威を気にせず朝倉・浅井軍に 織田・徳川の集中砲火がくることは目に見えていました。 さらに 同年7月には槙島城の戦いで将軍がに敗れて 京都を追放されてしまい、信長包囲網は瓦解しかけていました。 そして 1573年8月8日から始まる浅井氏の居城・攻めにおいて 浅井家家臣・(あつじさだゆき)のの寝返りが決定打となって を包囲して完全孤立化させることに成功します。 しかしその守備城砦の一つである 大嶽砦が陥落すると形勢不利と悟って、 は越前への撤退を決めます。 朝倉軍が撤退をし始めると、それをそもそも読んでいたは 自身の本隊を率いて朝倉軍を追撃します。 そして義景が 撤退目標として定めた越前疋壇城(ひきだじょう)への 道中となる 刀 根坂で、織田軍の更なる猛追を受けるのです。 この刀根坂の戦いにおける 殿を務めることになったのが山崎吉家です。 吉家の 弟である吉延(よしのぶ)を始めとして嫡男の吉健(よしたけ)や 族の多くがこの戦線に参戦していました。 しかし織田軍の苛烈な追撃には耐え切れず、朝倉軍は壊滅状態。 山崎吉家は一族と共に戦死してしまいました。 一方で主君・は少数の手勢と共にへ帰還することはできたので 吉家としては殿としての役目は果たしたことになるので 死んでも本望だったかもしれません。 2.「」とシリーズでの山崎吉家 「」での朝倉家臣時代を どれぐらいのスパンを取るのか、あるいはほぼ飛ばすのか知りませんが 前述したように、 越前にが訪問する前後ぐらいから 登場する可能性はあると思います。 正直朝倉家で著名な武将って一門を入れても数名しか思いつかないので 逆に登場しやすい状況にはあるかもしれません。 特に、山崎吉家は 朝倉家の参謀であったの後継的役割を果たしていた人物ですしね。 もしもの朝倉家時代を少しでも濃密にやるとしたら 山崎吉家は朝倉家の宿老ですから、当然絡みもありそうです。 あとは光秀が臣となってからの 、志賀の陣、 そして最期の刀根坂の戦い辺り。 光秀の朝倉家臣時代に吉家との絡むシーンがあったりすると 刀根坂の戦いで伏線を回収するようなストーリーも作れたりするかもですね。 そしてシリーズでの登場は 、天道、創造、創造 戦国立志伝、大志の計5回。 から天道までは長い間登場していなかったみたいです。 での評価値はどちらかというと戦闘系寄りの評価値なんですが 天道からは政治系の評価値が高めとなっています。 ・創造 戦国立志伝での評価値がこちら。 なんとなく納得できる評価値です。 戦闘系は戦場での目立った活躍ってういのが見えてこないので 50近辺でも妥当かなぁと思います。 から戦術を伝授されていた、 みたいな逸話あったりしたらよかったのにと思いつつ 一族ほぼ全滅しちゃってるからなぁ。 3.まとめ 今回は越前朝倉家の宿老、 もしかしたらの弟子だったかもしれない 山崎吉家した。 朝倉家については、の思い切りの悪さとか 決断力の乏しさとかが滅亡に導いた気がします。 山崎吉家は最期まで朝倉家に尽くして戦死しましたけど へ寝返った家臣がいたり、 へ援軍を送る際には従軍拒否する家臣がいたり 朝倉家中は一致団結して戦っている状態ではありませんでした。 金ヶ崎の退き口は信長討伐の絶好のチャンスだったはずなのに あそこで信長を仕留められなかったことを きっと吉家は最後まで悔やんでいたんじゃないかなぁ っていう妄想をしてみたり。 では今回はこの辺で。 ここまで読んでいただきありがとうございました! tsukumoshigemura.

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山崎吉家【刀根坂の戦いに散った、朝倉家名臣】|ibis大百科

山崎 よし いえ

1555年、朝倉宗滴は加賀に侵攻し を攻撃しますが、このとき朝倉宗滴は陣中で病となって帰国し、のち没します。 その代役を任されて活躍したのが、 と朝倉景隆でした。 その後、山崎吉家は との外交などでも活躍しており、織田家の脅威が迫ると とも交渉しています。 1567年、朝倉氏の家臣の堀江景実が反旗を翻して一向一揆と結ぶと言う噂が流れると、山崎吉家は朝倉義景の命を受けて、魚住景固らと堀江氏討伐の兵を指揮しました。 ちなみに、堀江景忠は能登に亡命しています。 また、 が越前に下向して に入る際には、足利義景に従って、足利義昭を迎えています。 そして、越前にいた ともかかわるようになったものと推測されます。 1570年、 が を攻撃した際には、 に従って出陣しています。 にて織田勢が撤退すると、 の直前に帰陣しました。 その後、 の要請があると、近江・ に入り「山崎丸」を築いたとされます。 そして、朝倉勢の本隊に合流して、琵琶湖の西岸から南下して 近江・坂本に至ると、宇佐山城の戦いにて、 ・織田信治・青地茂綱らを討ち取る大手柄を上げました。 1573年にも、朝倉義景の敦賀出陣にも従い、若狭・佐柿城に付け城を築いています。 そして、近江へ進軍しますが、 敦賀へ退却中に ・ ・ ・木下秀吉・ などの追撃を受け、 刀禰坂の戦いで、殿 しんがり となり、討死にしました。 山崎一族としては、弟・山崎吉延 山崎吉清 、珠宝坊、子の山崎吉健ら、多くが共に戦死しています。 では、朝倉勢としても、朝倉景行、朝倉道景、 、河合吉統ら多くの名のある武将を失っており、7日後に朝倉氏は滅びました。 カテゴリー• 126• 761• 110• 108• 128• 115• 113• 208• 161• 153 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 ご指摘賜れば、再調査の上、必要に応じて修正・加筆など行いますので、誤字・脱字のご指摘と合わせて、コメント欄よりご一報賜りますと幸いです。 残念ながら当方の承諾を得ていない、記事の流用や成りすましサイト・動画などが見受けられ弁護士と対処を検討中です。 他サイトご利用の際にはご留意願います。

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山崎吉家【刀根坂の戦いに散った、朝倉家名臣】|ibis大百科

山崎 よし いえ

概説 越前国の生まれ。 父は山崎長吉。 朝倉氏に仕えた。 加賀国で内紛が起きると、それに乗じて朝倉氏は能登国の畠山氏と共に加賀へ出陣した。 吉家も当時事実上の当主であった朝倉宗滴に従い出陣した。 しかし、畠山勢が壊滅したため、朝倉勢は手取川まで進んだところで引き返した。 加賀一向一揆攻めの最中に宗滴が病で倒れると、代わりに大将となった朝倉景隆と共に出陣した。 宗滴の死後、宗滴が担当していた越後国の上杉氏との交渉役を引き継いだ。 謀反を起こした堀江景忠の討伐軍に大将として同じ朝倉家臣の魚住景固と共に出陣、堀江氏の館を激しく攻撃したが決着はつかず、景忠を能登国へ亡命させることで戦いを終わらせた。 が一乗谷の朝倉館を訪問すると年寄衆として挨拶した。 織田氏との戦いが始まると、吉家は同盟者である浅井氏の援軍として小谷城へ入った。 が摂津へ兵を進めると、その隙に浅井・朝倉連合軍は西近江を南下した。 吉家は先陣を賜り宇佐山城の戦いで織田氏の重臣たちを討取った。 その後、浅井・朝倉両氏は比叡山に籠るも織田氏と講和し帰国した。 小谷城が信長により攻められると、当主・が自ら出陣して砦を築き守備を固めたが、暴風雨を逆手に取った織田軍の奇襲により朝倉方の砦は次々と落とされ義景は撤退を決断した。 吉家は殿軍を任され猛追してくる織田軍を相手に奮戦したが、やがて力尽き一族や他の将兵たちと共に討死した。 コメント ものすごく大きな働きをしたわけではないものの、堅実に任務を遂行できる優秀な武将であり、間違いなく朝倉家中で重要な立場にあった人物です。 イラストは「少しだけ何かが足りなかった歴戦の将」をテーマに描きました。

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