岡田 有希子。 岡田有希子さん没後34年、芸能人でただひとり墓参りを続ける荻野目洋子との“友情”

岡田有希子の自殺原因の真相!後追いは300人以上!?

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「見覚えのある人だと思ったら、荻野目さんだったので驚きました! ユッコのお墓参りにいらっしゃったのだと思います」(目撃した女性) 1月中旬、愛知県愛西市にある成満寺(じょうまんじ)に姿を現したのは歌手の荻野目洋子(51)。 '86年に亡くなったあと、彼女はこのお寺に眠り続けている。 「その日は確かに、荻野目さんはいらっしゃっていました。 数年に1回のペースですが、定期的に岡田さんのお墓参りに来ていただいております。 今回は名古屋でライブがあったそうで、その合間に、お花を持って立ち寄られました」 そう話してくれたのは、成満寺の住職。 荻野目といえば、数年前に再ブレイクしたことが記憶に新しい。 「自身最大のヒット曲『ダンシング・ヒーロー』に合わせて、大阪の『登美丘(とみおか)高校』ダンス部がバブル当時のファッションで踊った動画が話題に。 『YouTube』でも5000万回以上の視聴回数を記録し、'17年末の『日本レコード大賞』ではダンス部の生徒たちと本人が共演して『特別賞』を受賞したんです」(レコード会社関係者) 一方の岡田さんは、荻野目と同年の'84年4月に歌手デビュー。 その中でもユッコは、竹内まりやがデビューからのシングル3部作を手がけたこともあり、頭ひとつ飛び抜けていましたね。 しかし、人気絶頂だった'86年に所属事務所が入居する都内のビルの屋上から飛び降り自殺。 真相はわかりませんでしたが、彼女の後を追って自殺するファンまで続出し、社会問題になったほどです」(ワイドショースタッフ).

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岡田有希子の遺体写真は流出させて大丈夫なものだったのか

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【2008年10月13日付デイリースポーツ記事より】 俳優の峰岸徹(みねぎし・とおる、本名・知夫=ともお)さんが、肺がんのため11日夜に都内の病院で死去していたことが12日、明らかになった。 65歳だった。 峰岸さんは、今年4月にがんが発覚し入院加療していた。 7月に仕事復帰したが、2週間ほど前に体調を崩し再入院。 そのまま帰らぬ人となった。 故人の遺志で葬儀・告別式は、親族のみの密葬で営まれ、後日「しのぶ会」が開かれる予定という。 鉄人レースに挑む体力をもってしても、がんを克服できなかった。 峰岸さんは11日夜、都内の病院で親族にみとられて静かに息を引き取った。 関係者によると「とても安らかな最期だった」という。 今年4月。 持病の腰痛の術前検査でがんが発見された。 自身の公式HP上に7月12日付でその時の心境を「一瞬何が何だかわからず、全てが止まった」「私は腰の手術で入院したのだ。 そんなバカなウソだろ」などと赤裸々につづっている。 出演を予定していた6月の舞台を「腰痛の悪化」を理由に降板した。 その陰で必死にがんと闘った。 5月から抗がん剤や放射線治療を受けた。 「がんにいい」と教えられた秋田県・玉川温泉まで湯治に出向いたことも。 経過は良好だった。 7月にはがんを公表し、テレビ東京の旅番組で仕事復帰も果たした。 現在、公開中の映画「おくりびと」にも出演している。 だが、2週間ほど前から体調が急変し入院。 そのまま帰らぬ人となった。 12日の未明に都内の自宅に無言で帰宅した。 この日、自宅には、親交のあった映画監督の大林宣彦氏ら友人らが弔問に訪れた。 62年デビューの峰岸さんは数々の映画、ドラマ、舞台で活躍した。 一方、最近はトライアスロンにのめり込み、00年から沖縄・宮古島の大会に参加。 闘病中も「来年の大会には出るんだ」と希望を持ち続けた。 今月19日には大阪で開催される「肺がんフォーラム」で、患者の立場でゲスト講演する予定だった。 HPでは「私は負けない、絶対に負けない」「私は絶対に負けません、癌なんかに…!!」と不屈の意気込みを示していた峰岸さんだったが、65歳の若さで天国へと旅立った。 俳優業以外で峰岸さんが注目を浴びたのは、86年4月8日、人気アイドル・岡田有希子さん(享年18)が投身自殺するというショッキングな事件が起きた時。 自殺の要因の一つが失恋のショックとされ、その交際相手として噂(うわさ)されたのが、ドラマで共演経験のある峰岸さんだった(当時42歳)。 事件当日、緊急会見を開いた峰岸さんは「妹のような感じで、いろいろアドバイスしたりする仲だった。 兄と妹の関係以上にはなかった」と、恋人説を否定しつつ「僕にも責任がある」と涙を浮かべて語っていた。

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岡田有希子の遺体写真は流出させて大丈夫なものだったのか

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存命していれば、2020年に53歳になる 岡田有希子、本名 佐藤佳代。 愛知県一宮市出身。 1967年8月22日生まれ。 1984年~1986年4月8日までの2年数ヶ月間、 芸能活動をした アイドル歌手。 当時、松田聖子を頂点とする アイドル歌手の中で、 10本の指に入る トップアイドル歌手のひとり。 1983(昭和58)年4月に 名古屋市立向陽高校に入学している。 向陽高校在学中の佐藤佳代さん 向陽高校は現在 偏差値70を超える 難関校である。 同校の1学期中に応募した テレビオーディション番組『スター誕生! 』の 決戦大会出場に合格し、 サンミュージックにスカウトされた。 1983年(昭和58年)9月1日付で 東京の堀越高校へ編入している。 4ヶ月後の1984(昭和59)年1月10日に 若年男性向け情報誌『スコラ』から、 取材を受けたのが、 初の芸能活動である。 目 次• デビューして2年数ヶ月間で岡田有希子は、急激に顔が変わった 高校生の時期の女性は、 成長とともに顔つきは 誰でも変化する時期だ。 しかし岡田有希子の顔の変化は、 それとはまったく次元が違う。 中学2年生 14歳、中学2年生の佐藤佳代 1981年8月、姉が購読していた 旺文社の雑誌『高一時代』に掲載された オーディション『ニコン フレッシュギャルコンテスト』に 中学2年生のとき応募して 準グランプリに選ばれている。 写真は月刊誌『写楽』1982年3月号、裏表紙のニコンの広告。 ニコンはこの写真を特大ポスターで各所に貼り出したが、 このことと佐藤佳代の芸能界入りは直接には関係ない。 1984年のデビュー当時(高校1年生) 幼さがのこるデビュー当時の岡田有希子(16歳) 1985年 すっかり洗練されたスターのオーラを放つ 最晩年1986年3月 あの日の2週間ほど前に撮影された 岡田有希子。 ついこの間まで かわいいアイドルだった女の子が 老成した大人の女性の顔に ギョッとする。 化粧や髪型のせいもあるだろうが、 まるで別人のように顔が変わっている。 顔が別人のように変わった 決定的な1枚。 この写真を撮影した写真家自身も 以前に撮影した時と顔が 激変していることに驚いたことを 当時の写真週刊誌で語っている。 広告 岡田有希子、生前最後の写真 あの日の前日、 映画「ロッキー4」の試写会に 友人をともなって現れた岡田有希子。 この日はオフだったが、 取材に来ていた数社のカメラマンに求められ、 映画の宣伝パネルの前に立ち笑顔を見せた。 この時撮影された写真が 生前最後の岡田有希子の姿である。 手元を見ると、メガネを持っている。 岡田有希子は視力が左右ともに 0. 1以下であった。 プライベートでは かなり度の強いメガネをかけていた。 その様子について後に 小泉今日子は 「仕事じゃないときはいつも 牛乳瓶の底みたいな 分厚いメガネをかけていた。 レンズを通して小さくなった目が なんとも可愛かった」 と回想している。 岡田有希子は、タレント活動中に コンタクトレンズやメガネは 一切使用していない。 事務所側も顔のメージ構築上、 メガネをかけた顔を 極力メディアに出さないように注意していた。 そのため、上の写真もプライベートとはいえ、 マスコミのカメラを向けられた岡田有希子は、 急いでメガネを外して、 手に持っているのがわかる。 逝去時の服装は、 この写真の服装の上に 黒のジャケットコートを着ているが、 写真の服装のままであった。 岡田有希子の顔は包帯で覆われていた 以降はその年の 『文藝春秋』(1986年10 月号)に掲載された 岡田有希子の母親、佐藤孝子さんの 手記の引用。 変わり果てた佳代と対面したのは 四谷警察署でした。 佳代の顔は包帯でぐるぐる巻きに 全部覆われていました。 ただ、口許(くちもと)は 覆われていなくて、 その口許を一目見て、私はすぐに 佳代だとわかりました。 それは小さいころから見なれた 佳代の寝顔の口許そのままでした。 ちょっとすぼめたような。 恥ずかしがっているような。 佳代と呼びかければ、 すぐにいつもの明るい声で 「なーに、かあさん」と 応えてくれそうな。 呼びかけたけれど、 もちろん、返事が返ってくるはずも なかったのです。 母親の孝子さんは、 あの日から5年ほど後に他界している。 たった2年数ヶ月間の芸能活動 芸能界に憧れ、夢がかない、 2年数ヶ月間のまたたく間に スター岡田有希子になった。 この秀才アイドルが 18歳にして老成した顔つきに変わった。 逝去2週間前に撮影された 『週刊ポスト』の表紙に掲載されるはずだった 微笑んでいるのに影をとらえた 決定的な写真。 岡田有希子最晩年のこの写真こそ、 外からはうかがい知れない ショービジネス界の影を感じる。 アイドルとしての2年数ヶ月間、 岡田有希子と名乗って世に出た佐藤佳代に いったい何があったのか。 1984年(昭和59年)5月31日放送/『ザ・ベストテン』TBS.

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