ナイチンゲール が 最初 に 導入 した の は。 ナイチンゲールが、最初に導入したものは? 【ことば検定プラス】

ナイチンゲールと統計|統計学習の指導のために(先生向け)

ナイチンゲール が 最初 に 導入 した の は

古代 最も初期の看護師と考えられているのは、シャーマンです。 古代社会において、病気は悪霊により引き起こされると広く信じられており、恐れられていました。 そのような病気に対し、呪術医としてシャーマンは頼られていました。 また、看護の発展には キリスト教の影響を抜きには語れません。 古代ローマ帝国において、 「自己犠牲により他社のために尽くす」というキリスト教の考え方は病人の看護が徳行になりました。 但し、この時代の資料において、「看護」という主題はまだ表れていません。 中世 宗教界において、看護師が現れます。 ヨーロッパ各地の大修道院では、聖職者が世間から隔絶した生活を営んでいました。 この営みの中で聖職を志す女性は、修道女になる過程で看護を学び、病院が作られるようになります。 生命を賭して危険を承知で戦場のの渦中に入り、負傷者や疫病の患者い寄り添う姿は、英雄視され、聖人と深いつながりがありました。 特に十字軍の戦い(11世紀〜13世紀)における 騎士修道会は最も英雄視されており、 当時は看護は男性が中心で、女性は男性の従属的存在でした。 近世 16世紀のヨーロッパの「宗教改革」以降、カトリック教国では新しい看護修道会が現れ、看護の気運が急速に拡大しました。 中でも17世紀のフランスで起こった 愛徳修道会は最も重要であり、看護に献身しました。 また、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルなどの海洋国家は世界各地に植民を広げ、カナダやアメリカなど各地に教化の一環として病院を建てました。 但し、この頃の看護の施術は師から弟子へ実体験として伝えられ、口伝えによる場当たり的な発達にならざるをえませんでした。 看護職の誕生(19世紀〜)とナイチンゲールの功績 改革と組織的拠点の誕生 19世紀初頭になるとプロテスタント諸国では病人の看護が見過ごされているとの認識が生まれ、改革の必要を訴える声が出てきます。 これらの声を裕福な博愛主義者や政治家たちがくみ取り、キリスト教の信仰と貧者を救済したいとの気持ちが大きく働き、改革が進みます。 プロテスタント諸国における初期の組織的な看護拠点は、ドイツと北欧諸国の修道女会が立ち上げました。 後、イギリスやアメリカでも同様の動きが加速します。 ナイチンゲールの活躍と功績 19世紀に入ると革命やナポレオン戦争が起こり、武器の改良も著しく、戦争は強力な破壊力を持つ武器により、多くの負傷者が出るようになります。 これらの負傷者を手当をしたのは、看護兵であり、軍隊に従う女性たちでした。 しかしながら、その実態としては、組織的な従軍看護からは程遠かったのです。 そのような状況の中、19世紀半ばのクリミア戦争におけるフローレンス・ナイチンゲール(1820年〜1910年)の活躍は、看護の進歩に画期的な影響力をもたらしました。 この戦争において、ナイチンゲール一行が派遣され、初めて 「看護教育を受けた看護師による看護」が行われることになったのです。 彼女は、高い教養と衛生についての知識、病気から健康回復に至るための方法、看護組織の管理の方法、誠実さと意志の強さ、決断力などの彼女の人格、それらすべてをかけて、敵味方の区別なく献身的な看護活動を行ったのです。 イギリスに帰国後は、クリミアでの活動が人々にみとめられ、ナイチンゲール基金が集まりました。 この基金をもとに、1860年には宗教と関係のない初めての看護学校として ナイチンゲール看護学校が設立されています。 ナイチンゲールは 「看護師は道徳的に優れているべき」と考え、 「教養ある淑女向きの職業である」と訴え、現在の看護師の礎を築いています。 ちなみに、アメリカの南北戦争(1861〜1865年)においても、数百名の看護修道女が重要な役割を果たし、さらに有志の看護団が設立されています。 ヨーロッパ諸国で「赤十字」の看護師は身近な存在となり、「赤十字」は看護教育を行うようになりました。 ちなみに、現在、赤十字の本部はスイスのジュネーブにあり、約90カ国で13,000人以上の職員が活動しています。 協会では、多数の国の看護師が協力することを決め、職業としての看護の発展に大きな影響を与えることになりました。 当時、まだ新しかった看護という職業は世界共通であると主張し、 資格認定制度の確立と高水準の看護教育を維持することを目的としています。 ちなみに資格認定制度は1901年に法制化したニュージーランドが初めての国であると言われています。 現在は、130か国以上が加盟するまでの組織となっています。 看護の発展に貢献して来た偉大なる先輩の方々です。 聖ファビオラ(〜399年) 信仰心の厚いファビオラは自分の財産で世界で初めてのキリスト教病院を設立し、病院や貧者を助け、看護活動の発展に貢献しました。 また、ベツヘレムのキリスト教の旅人宿泊所で看護し、イタリアに巡礼者向け宿泊所を作っています。 聖エリザベート(1207年〜1231年) ハンガリーの女王。 貴族という身分であるにもかかわらず、いくつも病院を建て、自らも病人の手当をして看護に従事しました。 夫の死去後、聖フランシスコ会に入会し修道女に。 マールブルクにフランシスコ会の病院を設立。 体が丈夫ではありませんでしたが、看護活動に貢献。 24歳の若さで没しました。 聖女として知られています。 聖カテリーナ(1347年〜1380年) イタリア・シエナの染物屋の25人兄妹の末っ子として生まれたカテリーナは、6歳の時に夢を見て一生を神にささげる決心をします。 10代の時にドミニコ会に入り、病人や貧者の看護に献身。 彼らの世話のため、家々や監獄へと出向きました。 カテリーナの看護で回復した人も大勢おり、多くの重病人を看護しても無事だったことから、超人的な力が有名になりました。 カルミス・デ・レリス(1550年〜1614年) ルネッサンス期の男性看護師として代表的な人物。 イタリア南部ブッキアーニコ生まれ。 若くしてベニス軍に入隊。 戦闘で負傷した傷の治療を受けたことが、看護の初めての出会いでした。 後に病院の職員となり院長までになります。 治癒の見込みのない負傷者や伝染病患者の看護を使命とし、「カミリアンズ」と呼ばれるように。 数多くの患者を死の淵から救う奇跡を行ったとして有名になり、死後の1746年に、サンピエトロ大聖堂の聖人の列に加えられています。 ルイーズ・ド・マリヤック(1591年〜1660年) フランスのカトリック教会の修道女。 聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会の共同創始者。 ルイーズは夫の死後、未亡人となり、病人の看護に身を投じることに。 1625年に司祭のヴァンサン・ド・ポールに出会い、1633年に2人は「愛徳婦人会」から与えられた基金を使い、「愛徳修道会」と名付けた看護師団体を設立。 ルイーズは貧しい田舎の女性達を自宅に集め、看護の仕方を指導。 教育の内容が向上し、この運動は急速に拡大しました。 1660年にルイーズが没した時は、フランスに40か所の看護所が出来ており、この看護活動はフランス各地に拡大し、病院、刑務所、孤児院などでも看護をしました。 エリザベス・フライ(1780年〜1845年) 看護の改革者の中で最も有名な1人。 1840年にイギリス初の看護学校を創立しました。 イングランドのノリッジの裕福な銀行家に家に生まれたフライは18歳の頃から近隣の貧しい人達の健康や福祉に強い関心を持つようになり、病人の世話や食料、衣服を持って行ったりするように。 結婚後、ロンドンに移った後、ニューゲート刑務所の女囚達の悲惨な状況を目の当たりにし、改革に奔走。 1823年にロバート・ビール内務大臣に司法制度改革を訴え、1840年には看護学校を設立し、看護教育に乗り出します。 これらの仕事はナイチンゲールに大きな影響を与え、1845年にナイチンゲールはフライが育てた看護師達と共にクリミアに赴くことにつながっていきます。 ドロシー・パティソン(1832年〜1878年) イングランド・ヨークシャー生まれの慈善家、看護婦。 シスター・ドラの愛称で知られています。 1864年にコーザムの「クライストチャーチ英国教会修道会」に入会。 1865年1月にウォールソールの医院に派遣されます。 独学で看護を学び、医院の看護師長になり、外科看護師としての優れた手腕と知識で有名になりました。 フローレンス・ナイチンゲール(1820年〜1910年) 「近代看護教育生みの親」といわれ、近代の最も有名な女性の一人でもあります。 ナイチンゲールは「看護師になりたい」と決意してから、現場に立つまでに15年かかったそうです。 そして、この15年間の間にナイチンゲールは多くの施設を見学し、統計学などを起用して学習し、独自の「看護観」を確立していきます。 クリミア戦争でのナイチンゲールの看護はその学習の結実であり、「クリミアの天使」とも呼ばれることになりました。 また、病院の改革、助産婦学校の創設をはじめ、公衆衛生看護事業にも影響を与えています。 著書 には、 「看護がなすべきこと、それは自然が患者に働きかけるに、最も良い状態に患者をおくことである」という記述があります。 メアリ・シーコール(1805年〜1881年) ジャマイカ・キングストン出身の看護師。 1854年末に第2次クリミア派遣イギリス看護団に応募したが不採用になり、「肌の色のため」だと考えたメアリは、個人で看護師兼女医としてクリミアに赴きます。 そこで、病舎を開設し、カリブ海地方の薬草で赤痢を治療しました。 ドロシア・ディックス(1802年〜1887年) アメリカ・メイン州ハンプデン生まれの社会活動家。 30代で精神病院の改革という重要な仕事に携わる。 今までしっかりとした精神病院の整備が行われていなかったアメリカにおいて、州議会やアメリカ合衆国議会への精力的なロビー活動により、本格的な精神病院を多数設立しました。 また、南北戦争の時には、陸軍看護師の監督官に就任。 負傷者には北軍も南軍も関係なく、等しい看護をするように一貫して主張し、名を揚げることとなりました。 ウォルト・ホイットマン(1819年〜1892年) アメリカ・ニューヨーク州ロングアイランドに生まれの詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。 「自由詩の父」とも呼ばれています。 南北戦争の時に、ワシントンの北軍の病院で看護志願者として勤務。 弟のジョージが負傷し、無事な姿を見て、看護師を志願し、陸軍主計管室の臨時職員の仕事で生計を立てます。 後に『戦争の思い出』を執筆。 恐ろしい戦争の傷跡と病気を目撃した体験を語りました。 クララ・バートン(1821年〜1912年) アメリカ合衆国 マサチューセッツ州 オックスフォード生まれの看護師。 アメリカ赤十字社の創立者として知られています。 教師だったバートンは南北戦争が始まると、看護師に志願。 看護師長となり、激戦地に従軍し、負傷者の手当を行います。 1862年8月、ブルランの戦いの直後は、手桶しかない状況でもう一人の看護師2名で、3,000人の負傷兵を手当て。 さらに同年9月にはアンティータイムの戦いに赴き、外科手術を手伝います。 これらの活躍により、バートンは「戦場の天使」として知られるようになりました。 1870年にバートンは普仏戦争の戦場に赴き、ヨーロッパ滞在中に「国際赤十字委員会」の役割を知ることに。 帰国後、1881年に赤十字アメリカ支部を創設して、初代総裁を務めました。 ジェーン・ディラーノ(1862年〜1919年) アメリカ合衆国 ニューヨーク州 モンツアー・フォールズ生まれの看護師。 アメリカ看護界の大物であり、アメリカの看護の発展に尽くした人物です。 1886年に看護資格を取り、ペンシルバニア大学病院の病院管理長を務めた後、アメリカ赤十字協会の会長、アメリカ看護師連盟の会長を歴任。 第1次世界大戦中に陸軍看護団とアメリカ赤十字看護社が緊密に連携して活動出来たのは、ディラーノの功績とされています。 ご利用者満足度96. 3%を記録 ・ 全国にオフィス展開し、エリア毎にほぼ全ての求人を網羅 ・地方在住や多忙な方に、 電話やメールでの求人紹介も対応 ・数量限定の 「看護師転職無料サポートブック」を贈呈.

次の

AviUtl初心者が最初に読むべきページ【導入から使い方まで】

ナイチンゲール が 最初 に 導入 した の は

この名を聞いたことがないという人は少ないだろう。 しかし、彼女が看護婦だったということ以外は存外知られていない。 英国出身のナイチンゲールは、19世紀中期に勃発したクリミア戦争に看護婦として従軍し、英国軍の死亡率を劇的に下げた人物だ。 「看護婦」という響きから、母性的で優しげな女性をイメージしがちだが、実際には、可憐な存在では決してなく、女性の社会進出などありえなかった時代に男性からも一目置かれ、恐れられる存在であったという。 今号ではナイチンゲールの生い立ちや苦悩、そして人物像に触れながら、彼女が残した特筆すべき功績の数々をご紹介したい。 運命のクリミア戦争 「彼女は救いの天使だ。 誇張するわけではないが、彼女の細身の身体がそっと病院の廊下を通る時、病人たちが彼女の姿を目にすれば、どの顔も穏やかになっていく。 そもそもクリミア戦争とは、ロシアがヨーロッパ、地中海方面への勢力拡大の足がかりのために、トルコに宗教的正当性を振りかざし、仕掛けていった戦争として知られる。 英国が参加したのは、開戦間もない頃、トルコ艦隊がロシア軍にすんなりと打ち破られてしまったためで、ロシアの地中海進出をなんとか阻みたい英国は、フランス、イタリアと組んでトルコの後ろ盾となり、ヨーロッパ四国同盟を作ってロシアを攻撃していく。 ロシア軍220万、同盟軍100万人を動員する大規模な国際戦争に発展するが、この戦争は史上稀に見る「愚かな戦争」としても知られる。 というのも、2年余り経っても決着がつかず、両陣営ともに不手際が続発したからだ。 ロシア軍13万人、同盟軍7万人という甚大な数の死者を出しただけで、どちらが戦勝国か分からない混沌とした状況に、人々の虚脱感が残るだけだったという。 英国では膨大な戦費の捻出により、ついには内政が破綻してしまう事態を引き起こすまでになっていた。 ナイチンゲールの支援者でもあった シドニー・ハーバート (Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea, PC、1810~61/1847年、Francis Grant作)。 「傷病兵が苦しみもだえても医療品は不足し、手術する外科医もいなければ看護婦もいない。 傷口を手当てするガーゼすらなく、包帯する布さえないありさまだ。 寒さと疫病に苦しみながら、毎日多くの兵士が命を落としている。 我々にはなぜ慈善婦人会がないのか? 優しい心を持ち、献身的な英国人女性はたくさんいるはずなのに」(1854年10月12日付、タイムズ紙) 実は、クリミア戦争は新聞記者が従軍し、ジャーナリストの観点から戦況を伝え、翌日の新聞に掲載するという今日的な報道体制が初めて確立された戦争であった。 そのため、英国陸軍の医療体制のずさんさがすぐさま英国民の知るところとなる。 このタイムズ紙の報道なくしては、のちにナイチンゲールが「国民的英雄」として広く知れ渡ることはなかったと言っても過言ではないだろう。 「あの人しかいない…」 英国陸軍の野戦病院の悲惨な状況を深刻に受け止めた当時の国防相シドニー・ハーバートは、すでに看護のエキスパートとして頭角を現しはじめていたナイチンゲールに従軍を依頼。 ナイチンゲールはそれを二つ返事で快諾し、看護婦として、現在のイスタンブール対岸にあった英国軍後方基地のスクタリ野戦病院へと赴く。 ナイチンゲールがこの野戦病院で過ごした約2年間が、彼女の名声を決定づける最重要なポイントであったことは紛れもない事実だが、クリミア戦争終結後も40年余りに渡り、作家として、看護の権威として、そして改革の鬼として、精力的な活動を続けたことはあまり注目されていないように思われる。 また、ナイチンゲールは生涯独身を貫き通したことから、「結婚が女性の最大の幸せ」という、当時の一般的価値観に反した生き方をした女性である点も忘れてはならない事実だ。 まずはナイチンゲールが、看護への道へ突き進むまでの半生を追っていきたい。 ナイチンゲールは19歳の時、 ヴィクトリア女王に拝謁している。 社交界デビューを果たし、 美しく裕福だったナイチンゲールは、 周りの男性たちからの人気が高かった。 c Florence Nightingale Museum 1820年5月12日、フローレンス・ナイチンゲールは富豪であるジェントリー (*1)階級の両親の元、二人姉妹の次女としてイタリア・フィレンツェ(英語ではフローレンス)で生まれる。 父、ウィリアムは学問に秀で、ケンブリッジ大学を卒業し、政治活動や娘たちへの教育に熱心な人物。 一方の母、フランシスは社交好きな美しい女性であった。 国民の3パーセントの上流階級に属する富豪のお嬢様として、何不自由のない環境で成長する。 一家は大陸旅行と称し、1~2年という時間をかけ、英国の屋敷から持ち運んだ一家専用馬車でヨーロッパを周遊。 旅先では観劇、オペラ、景勝地めぐり、舞踏会などを楽しむセレブリティ生活を送っていた。 幼い頃は学校へは通わず、姉妹揃って父から在宅教育を受ける。 歴史や哲学、語学さらに音楽まで様々な学問を習うが、その中でもナイチンゲールがもっとも興味を示したのが数学であったという。 両親との旅行中にも旅行距離と時間を記録に取るほど、数字にのめり込んでいった。 ナイチンゲール家の人々は当時の上流階級らしく、季節によって屋敷の住み替えをしている。 夏の家とされるダービシャーのリーハーストと、冬の家、ハンプシャーのエンブリーを行き来し、時にはロンドンへ赴き、当時メイフェアにあった高級ホテル、バーリントン・ホテルで過ごしたり、英国王室の避暑地としてヴィクトリア女王も訪れていた英国南部の島、ワイト島の別荘で過ごしたりしていたという。 そのような中、恵まれた生活が許された階級の人々であったからこそ、とも言えることだが、ヴィクトリア朝時代の貴婦人には、貧しい人を訪ね、食物や薬を与える習慣があった。 幼いナイチンゲールも母に連れられて、リーハーストの屋敷近くの村へ出かけていく。 そこでナイチンゲールは、ある時一人の女性の死に遭遇し、「病院」の存在を初めて知ることとなった。 というのは、当時の上流階級の家庭では、医師による往診が当たり前で、たとえ病気になろうとも、みずから医師のいるもとへ足を運ぶことなどありえなかったのである。 しかし「病院」とはいえ当時は汚く不潔で、排泄物などの悪臭が漂うのが普通であった。 若いナイチンゲールは、自分が住む経済的に満ち足りた世界と、掃き溜めのようなその状況の格差に疑問を抱いていく。 裕福な家に生まれながらも、貧民層の人々の生活に強く感じ入ったという事実から、彼女は人一倍広い視野と感受性を持つ女性であったことは容易に想像がつく。 こうして、かけ離れた二つの現実を掛け持ちすることになった、10代のナイチンゲールの苦悩の日々が始まる。 異性は二の次 きっかけは、ナイチンゲールが20歳になった時に訪れた。 彼女は、興味をもっとも抱いた学問である数学を極め、「世間に出て活躍したい」と家族に相談する。 19世紀の封建的なヴィクトリア朝時代の英国では、たとえ上流階級出身であっても女性の社会的地位はまだ低く、学問を身につけ一般社会で活躍したい、などという娘の告白は、両親にとって天地を揺るがすほどの衝撃的な「事件」であったに違いない。 ナイチンゲールの一番の理解者であった父、ウィリアムですら当惑するばかりだった。 しかし、ついには、ナイチンゲールの長期に渡る執拗な懇願に根負けし、両親は個人講師をつけて数学を学ぶことを許可する。 とはいえ、ナイチンゲールを完全には理解することのできない家族との間にはしこりが残り、このことから彼女は家族との間に葛藤を抱えていく。 旧10ポンド紙幣に用いられていた、 ナイチンゲールの肖像画。 c Florence Nightingale Museum ちょうどこの頃、英国は飢饉と不況に襲われており、ナイチンゲールは幼い頃、母に連れられて行ったように、屋敷近くの村を訪問し、病人を見舞っていた。 この経験を通じ病人看護に取り組みたいという思いを確固たるものとしたナイチンゲールは、ついに家族にその熱意を告白する。 だがそれは、家族にとって耐え難い衝撃的な出来事に他ならなかった。 というのも、当時、看護婦という職業は、下層階級の無教養な人々が就く仕事だと考えられており、娼婦、アルコール中毒者などがたずさわっているのが実情であった。 そのため、上流階級の淑女が就くような仕事では決してなかったのだ。 世間体を重視する上流階級の一家にあっては、娘が看護婦になるという事実は、隠し通したい恥ずかしいことであっただろう。 結局この時は諦めるしかなかったという。 そこには、ナイチンゲールが人生で計4回聞いたという神の声があったとされている。 ナイチンゲール自身の日記によると、彼女は寝室で、茨の冠をかぶったキリストが光輝く姿で現れ、「我に仕えよ!(To My Service)」という神の啓示を受けたという。 17歳で最初にこの声を聞いた時は「仕える(service)」が何を意味するのか理解できなかったが、前述のような貧困層のひどい暮らしぶりを見つめ続けた結果、24歳の時ようやくその答えを見つけだすことができたとされる。 良家のお嬢様という生い立ちはもとより、才色兼備で、さらには教養に裏付けられた機知に富んだ会話術を身につけていた20代のナイチンゲールは、社交界では当然人気者であった。 近づいてくる男性も多く、何度かプロポーズも受けている。 その中でも国会議員にして慈善活動家の富豪、R・M・ミルズとの関係は特別であったようだ。 貧しい人を看護したいという気持ちを理解した上でナイチンゲールを愛し、6年間に渡って求婚しつづけた。 しかし29歳の時、「結婚して夫に忠誠を尽くすことになれば、神の意思をまっとうする機会を奪われてしまう」との理由から、彼女は生涯独身を貫く決心を固め、最終的には彼の熱烈な求婚に対し、「ノー」の答えを出す。 これは、R・M・ミルズを、娘を『更生』させる最後の頼みの綱と信じていた母フランシスを失望の淵へ突き落とすことでもあった。 立ちはだかる男たちの「壁」 「私は30歳、キリストが責務を果たしはじめた年齢。 今はもう子供っぽいこと、無駄なことはしない、愛も結婚もいらない。 神よ、ただ自分の意思に付き従わせてください」(1850年、日記) 31歳の時、諦めともとれる家族の同意を得て、ドイツの病院付学園施設カイゼルスベルト学園に滞在し、3ヵ月間看護婦としての専門的訓練を積む。 英国に戻った後も独学で病院管理や衛生学を学び、33歳でロンドンのハーレイ・ストリートにある慈善病院に就職し、監督者となった。 一方で自分の行動が家族や親戚を不幸にしているという良心の呵責を感じずにはいられなかったが、それでも自分の意思を貫き通して生きたいと強く思うナイチンゲールは、人知れず思い悩み、打ち明けられない気持ちを吐き出すかのようにメモを連ねていく。 34歳でナイチンゲールが書き上げた自伝的小説『カサンドラ』(未出版)の中では、神からの啓示を実行するために結婚を断ったこと、看護の道へ進むことに反対する母との確執から神経衰弱に陥ったこと、そして自殺願望があったことまでが赤裸々に綴られている。 『カサンドラ』の執筆から間もない1854年3月、クリミア戦争勃発。 前述のとおり、国防相シドニー・ハーバートからの従軍依頼を受け、開戦から8ヵ月後の10月末、ナイチンゲールは職業看護師14名とシスター24名を引き連れ、戦地に赴いた。 荒れ狂う海原を越え、ようやくたどり着いたスクタリの地で、冷たい風が吹きすさぶ中、ナイチンゲールが目にしたものは、汚物まみれの病室と、満足な手当ても施されないまま、ゴキブリ、シラミ、ネズミなどがうごめき走り回るむき出しの固い床に寝かされた傷病兵たちの姿であった。 彼らの多くは痩せこけ、痛みに半狂乱となるか、その場で弱々しく頭をうなだれていた。 その環境の劣悪さから、多くの者がチフスやコレラを罹っていた。 その上、必需品である薬や食料が不足し、死者の数だけが増え続けていた。 驚くべきことに、病院での死亡率は戦地でのそれに対して7倍の高さであったとも伝えられている。 このような状況下で、ナイチンゲールは「救いの女神、来たり」という具合に現地で迎えられたわけではなかった。 伝統的に英国陸軍には、「戦場は男の世界」という概念があり、陸軍の軍医局の幹部たちは、ナイチンゲールら看護婦たちを、ろくに役に立たない邪魔者として蔑み、冷遇した。 ナイチンゲールの最大の敵は、不足する物資でも不潔な環境でもなく、陸軍の「男性社会の壁」であったのだ。 このためナイチンゲールら看護団は、当初、傷病兵の手当てをすることを許されず、破れたシャツを縫ったり病床を整えたりといった、ごく簡単な作業を行いながら、もどかしい日々を過ごさざるを得なかった。 スクタリ病院の真実 ~ 誤解が生んだ統計学への傾倒 ~ ナイチンゲールがスクタリにたどり着いた翌年の1855年2月には負傷兵の死亡率は約42%にまで跳ね上がっていた。 しかし、物資補給体制を整えたり、職員や病室を増やしたりといったナイチンゲールの寄与もあり、4月に14. 5%、5月に5%となり、同年冬にはなんと2%にまで激減した。 戦時中、ナイチンゲールは兵士の死亡原因は、極度の栄養失調や、兵士が疲弊し手遅れになって病院に送られて来るためだと信じていた。 このため、軍司令部の無能さや非情さ、物資補給を滞らせる政府や軍当局、病院管理者を激しく批判した。 戦後になって、このことを実証する目的で、統計学者のウィリアム・ファーとともに手がけた調査で、ナイチンゲールは、2万5,000人の兵士のうちの1万8,000人を死なせたおもな原因が、戦傷や兵士の過労によるものよりも、病院の過密と不衛生な状況によるものであったという、当初の推測とは異なる結論を得て、みずからも愕然とした。 数字上では、死亡率は劇的な減少を遂げたものの、看護の監督者として、病院の衛生管理事項の注意を怠ったために、助かったかもしれない負傷兵を死に追いやった、という罪の意識にさいなまれたナイチンゲールはあまりの衝撃に虚脱状態に陥るほどだった。 このことからナイチンゲールは、「死亡率の要因」という真実をできるだけ多くの人々に知らせることで、再び同じ過ちが繰返されるのを防ごうと決意。 ナイチンゲールが生涯に渡り、統計学と衛生統計へ情熱を注いだのはそのためだった。 クリミアに天使現る 「勇気と高い志を持った女性たちに対する冷遇はやがて、懇親的な働きから感謝の気持ちへと、自己犠牲をいとわない働きぶりは畏敬の念へと変化していった」(1855年、野戦病院の医師) ナイチンゲールたちに転機が訪れたのは、その2週間後の1854年11月5日。 ロシア軍が本格攻撃を仕かけてきたのだ。 その数ざっと5万人。 対する英国軍はわずかに8000人…。 たった6時間のこの『インカーマンの激戦』で、英国軍はあっという間に2500もの負傷兵を出した。 スクタリ病院は次々と担ぎ込まれる負傷兵たちであふれ返り、土埃と負傷兵のうめき、汗、そして血で覆われた地獄へと一変した。 すでに憔悴しきっていた軍医たちが、何千という負傷兵に処置を施すのは無理であった。 そしてこの緊急事態が軍医局のプライドをつき崩し、ついに、ナイチンゲールたちが実務に従事する許可がおりる。 ナイチンゲール一行は迅速な対応と見事な働きぶりを見せつけ、その実力を証明した。 ナイチンゲールは、ある時は患者に包帯を巻くために8時間もひざまずき通し、兵士が負傷した足をノコギリで切断されている際には、その絶叫と切断音の只中に身を置いて、患者のそばを離れなかったという。 夜はランプを手に持ち、何百、何千という患者を見回ったというエピソードはあまりに有名だ。 クリミア戦争時の 1856年3月9日に ナイチンゲールが書いた手紙。 c Florence Nightingale Museum ナイチンゲールの献身的な働きは、これだけにとどまらなかった。 彼女はこの悲惨な状況を国に報告し、患者の傷の手当てをする人材の不足、包帯や薬などもろくに補給されていない現状を訴えた。 当時国防相を務めていたシドニー・ハーバートは、ナイチンゲールとは慈善事業を通じて旧知の仲であったことから、彼女の戦地レポートを深刻に受け止め、支持した。 ハーバートの後ろ盾もあり、ナイチンゲールはすさんだ野戦病院の抜本的改善を推し進めていった。 重傷兵のための特別食を用意したり、今でいうナースコールを取り入れて昼夜を問わず患者の元に駆けつけることができるようにしたりした。 現在においては当たり前のシステムだが、当時としては画期的なアイディアであった。 すでに負傷兵たちの間では「天使」となっていたナイチンゲールであったが、彼女の取り組みはまだまだ続く。 軍病院改善のため、ついには個人財産を投げ打ち、リネン類や包帯、防寒具などの日用品の買い付けから、200人の職員増員、病院施設の拡張・改築まで、まさに徹底的な改革に乗り出した。 ナイチンゲールがつぎ込んだ財産はざっと約7000ポンド。 これは現在の35万ポンドにも相当する。 いわゆる「看護」の領域を超えた渾身の活動により、死者の数はみるみるうちに激減(11項コラム参照)。 ナイチンゲールの、革命とも呼べるこの大規模な改革は、英国の新聞で大々的に報じられ、ナイチンゲールは一躍時の人となっていく。 さらに、ナイチンゲールを支持する多くの英国一般市民から寄付が集まり、その総額は5万ポンドにも膨れ上がったという。 入院患者の生活環境としての病院の構造について 種々の提案をし、設計図を残している。 その設計は、 現代においても病院設計の専門家が参考にするほどの 優れた見識を示しているという。 1856年3月30日、パリで平和条約が締結され、翌月29日、クリミア戦争終結。 7月、最後の患者の退院を見届けたナイチンゲールは、ロンドンへの帰路についた。 英国国内ではすでに国民的英雄として祭り上げられていたが、過剰に注目されるのを嫌い、「スミス」という偽名を使って人知れず帰国している。 休む間を惜しんで、ナイチンゲールは幼少時に家族が別宅として利用していたバーリントン・ホテルの一室を自室兼事務所とし、クリミア戦争の英国兵の死亡原因の統計をまとめる作業に没頭する。 この分析で、負傷兵の死亡の最大要因は、病院の「衛生環境の劣悪さ」であることを突き止める。 第二の人生ともいうべきナイチンゲールの改革人生がスタートした瞬間だった。 まずは、統計資料などを用いて、英国陸軍の衛生状態や病院管理に関する、800ページに及ぶ調査書 (*2)を書き上げた。 そしてスクタリで目の当たりにした病院の悲惨な状況を参考に、陸軍病院全組織の改革を提唱し、病院のみならず兵舎の設備の改善にも取り組む。 下水道、調理設備の完備、換気や暖房、照明器具の設置なども徹底した。 陸軍管理官たちの管理規定も改め、個人の健康管理を考えるという、現代では当然だが、当時としては画期的な発想で規定を作った。 晩年は、闘病生活のかたわら、 ベッドの上で執筆活動はつづけていたが、 1901年81歳の時には失明し、 その10年後この世を去った。 c Florence Nightingale Museum 看護と衛生の大切さを広く一般に伝承することにも力を注ぎ、1860年に出版した『看護覚え書(Notes on Nursing)』は、看護婦の教本としてのみならず、各家庭の衛生管理を担う主婦たちのバイブルとされ、ベストセラーとなった。 同じ年、クリミア戦争中に創設された「ナイチンゲール基金」に集まった5万ポンドで、ロンドンの聖トマス病院内にナイチンゲール看護学校が設立され、ナイチンゲールは指導者として後継者の育成に努めるようになる。 生徒数は当初10人に過ぎなかったが、これを境に英国各地に同様の看護婦養成学校が作られるようになり、現在に近い看護婦養成体制が整えられる礎となった。 そして、それまで雑用係同様に扱われていた看護婦という職業が、高い教養を要する専門職として世間に認知されていくようになる。 しかし、40代を迎えたナイチンゲールは、陸軍という男性社会の中で発言を続けてきた極度のストレスに加え、ナイチンゲールを支え続けたシドニー・ハーバートの過労死、クリミア戦争の時にともに活動した親族内での唯一の理解者であった叔母、メイとの突然の別れなどにより、食事を受け付けなくなるほど心身ともに消耗してしまう。 そして、度重なる試練と不幸の末、ついに大きな発作を起こし、死の淵をさまよう。 その後の10年間は病床に伏した。 ところが、このような状況の中ですら、仕事への情熱は消えることがなかった。 ナイチンゲールはクリミア戦争時に出会い、さらにナイチンゲールの主治医となったジョン・サザランド医師との筆談によって、仕事を進めていく。 50代になり、ようやく体調も安定してきたナイチンゲールは、ナイチンゲール看護学校の卒業生を自宅に招き、リーダーになれそうな女性を選び出して積極的に支援したりもした。 52歳の時、自力で生活することが困難になった両親を訪問し、介護することを決意。 理解しあえなかった過去の、失われた時を取り戻すべく家族との絆を深めていくナイチンゲールであったが、1874年には父のウィリアムを、80年には母フランシスを亡くし、ナイチンゲールは徐々に心の支えを失っていった。 そして90年には、関節炎で病に臥していた姉のパーセノープも病死。 これが決定打となりナイチンゲールの活動意欲は徐々に削ぎ落とされていく。 ハンプシャー州、ロムジーの近くにある イーストウィロー教会内の墓。 墓石にはナイチンゲールの遺志により、 イニシャルで「F. Born 1820. Died 1910. 」 (F. 1820年生 1910年没)とだけ記された。 姉の死後も70歳半ばまで仕事を続けたナイチンゲールではあったが、76歳の時には二度とベッドを離れられなくなるまで衰弱し、81歳では失明。 しばしば昏睡状態に陥ることもあったという。 それまでは拒絶していた家政婦や秘書も雇い入れた。 生涯独身を貫き通し、家族を亡くして孤独の身となったナイチンゲールであったが、晩年のナイチンゲール宅は、甥や姪、看護学校の生徒や卒業生が出入りし、賑やかで幸福に包まれていたという。 何千何万という傷ついた英兵たちを支え、戦後も改革にまい進したナイチンゲールを世間も忘れるはずはなかった。 1907年には、87歳にしてエドワード7世より女性初のメリット勲章 (*3)が授与された。 1910年8月13日、ハイドパークに隣接する自宅でナイチンゲールは静かに息を引き取った。 享年90。 彼女の死を伝えるニュースは英国内のみならず世界中を駆け、当時の新聞は「ナイチンゲールの死はヴィクトリア女王の死と並ぶほど甚大な損失であり、国葬に値する」と書きたてた。 しかし、彼女は華美で盛大な葬儀を望む多くの人々の声を拒んだ。 彼女の遺志どおり、葬儀はごく小規模に執り行われ、ナイチンゲールの棺は両親の眠る墓のそばに、たった6人の陸軍曹の手によりしめやかに埋葬された。 その様子を、みすぼらしい身なりの庶民たちが、遠巻きに見守っていたという。 Florence Nightingale Museum (St Thomas' Hospital内) St Thomas' Hospital 2 Lambeth Palace Road, London SE1 7EW Tel: 020-7188-4400 【入場料】 大人£7. 50 子供£3. 80 【最寄駅】 Waterloo, Westminster [写真左]テムズ河を挟んで国会議事堂の正面に立つ聖トマス病院の一部。 病院の正面入り口に向かって左奥の一角。 なお、博物館内には、ナイチンゲールの著書をはじめ、バッジやノートなど、オリジナルロゴ入りのグッズを購入できるショップもあり。 用語解説 *1 ジェントリー:下級地主層の総称。 男爵の下に位置し、貴族には含まれないが、貴族との間に称号以外の特権的差異はない。 両者ともに「地主貴族層」に位置づけられる。 *2 英題:Notes on matters affecting the health, efficiency, and hospital administration of the British Army, founded chiefly on the experience of the late war. [1858] *3 メリット勲章:英国国王、もしくは女王から、軍事、科学、芸術、文学、文化の振興に功績のあった人物に贈られる。 現存する勲章の中で最も名誉なものであると言われている。 ナイチンゲールは女性として史上初の受賞者となった。

次の

フローレンス・ナイチンゲール

ナイチンゲール が 最初 に 導入 した の は

現在、健康被害がクローズアップされ、喫煙率は急激に減少しています。 その結果、シガレット(紙タバコ)の出荷も減少の一途をたどっています。 今回、そのシガレットの普及と衰退の移り変わりをフィリップ・モリス... しかし、イギリス陸軍のずさんな医療体制から病院内でチフスやコレラが蔓延し、兵士は次々と亡くなっていきくのでした。 特派員により、現地の悲惨な状態が報道されていきました。 クリミアでの活躍 ナイチンゲールも、報道からクリミアの状況を知ることになります。 その時、『フローレンスよ。 行け』という神の声を聞いたのです。 フローレンスは、クリミアに行くことを決断しました。 ちょうどそのころ、ハーバート陸軍大臣もフローレンスに、看護団の派遣を依頼していたところだったのでした。 前回、シガレットが普及するクリミア戦争について記載しました。 クリミア戦争は、ナイチンゲールが活躍したことでも知られています。 むしろ、ナイチンゲールの活躍がシガレットの爆発的な普及を促したと入っても過言... クリミアでのナイチンゲールの活躍はメディアに報道され、熱狂的な賞賛を浴びていきます。 フローレンスの邸宅には人盛りができ、そこらかしこでフローレンスの肖像画や人形までもが売られていきます。 終戦 一方、イギリス陸軍の負傷兵に対する杜撰な対応は国民からの非難をあび、内閣は退陣に追い込まれました。 そうして、1855年2月、イギリス帝国主義の権化ともいえるパーマストン卿が首相に任命されたのです。 パーマストンの登場により、ロシア皇帝ニコライ1世は動揺し、新内閣の体制が整う前に勝敗を決すべく攻勢をかけます。 しかし、ロシア軍は大敗を喫するのです。 軍崩壊の報を聞いたニコライ1世はそのまま意識を失い、息を引き取りました。 もともと、戦争は、ロシア皇帝ニコライ1世が、幕僚の反対を押し切って踏み切ったものでした。 皇帝の死により次第に厭戦気分が広がってきます。 1856年4月にパリ条約が結ばれ戦争は終結しました。 帰国 英国政府は、『英雄』ナイチンゲールの帰還を国をあげて迎える意向を示し、軍艦一隻を派遣し、護送することを提案します。 しかし、フローレンスは目立つことを嫌い、きっぱりと断ります。 最後の兵士の帰国を見届けると、スミスと偽名を使い船で帰路につきました。 誰にも気づかれることなく邸宅に到着したのです。 フローレンスの姿を窓越しに見つけた家族は、涙ながらに飛び出して迎えました。 フィリップ・モリス わずかな遺産 話をフィリップ・モリスに移しましょう。 零細タバコ職人フィリップ・モリスが未亡人に残した資産はわずかなものでした。 作業場に残されたのは簡素な職人道具や古ぼけた冊子のみでした。 しかし、何の価値もないような古ぼけた冊子が、後に莫大な富を生み出していくのです。 それこそが職人フィリップ・モリスが精魂を込めて研究した『マールボロ』のレシピだったのです。 再興 夫を若くして無くした未亡人は、フィリップ・モリスの弟レオポルド・モリスとともに店をひきつでいきました。 タバコ店は、残されたレシピを忠実に再現することで、熱狂的なファンがついていきます。 商売は順調に推移していきました。 7年後には、弟レオポルド・モリスは未亡人から店の権利をすべて買い取りました。 さらに、コルクの喫い口をつけた新製品を開発します。 弟レオポルドは、その見本を無料で送り『この商品は唇に贅沢で、舌と喉のいがらっぽさをすべて防ぎます』と宣伝していきます。 新製品は、消費者から好評を博していきました。 倒産 すべてが順調に進んだかに見えました。 しかし、その後、弟レオポルド・モリスはオペラ歌手と色恋沙汰となり、業績は悪化の一途をたどります。 1894年、ついに店は債権者に差し押さえられ事実上倒産となったのです。 統計学者ナイチンゲール 『私は地獄を見た。 私は決してクリミアを忘れない』 話を再び、ナイチンゲールに戻していきましょう。 母ファニーと姉バースは、フローレンスとの再会を涙ながらに喜びます。 そうして、『これでフローレンスも満足したことでしょう。 これからはいっしょに楽しい生活を送れる』と思い描きます。 しかし、期待は裏切られることになるのです。 フローレンスは、母と姉との安穏とした生活を過ごすつもりは毛頭ありません。 脳裏には、イギリス陸軍のずさんな管理により命を落とした兵士たちの墓標が離れることは無かったのです。 私は地獄を見た。 私は決してクリミアを忘れない。 フローレンス・ナイチンゲール フローレンスは、兵士の命を奪った陸軍組織を改革するため、命ある限り闘うことを誓ったのです。 しかし、陸軍省には何もかも忘れようという空気が充満していました。 しかも、ナイチンゲールが陸軍のメンツを潰したと考え、疎ましく思う陸軍官僚も少なくなかったのです。 陸軍は、ナイチンゲールを避け無視を続けます。 ヴィクトリア女王の支援 思いもよらないところから援軍が来ます。 ヴィクトリア女王がナイチンゲールとの会見を望んでいるというのです。 フローレンスは、またとない機会を最大限に生かすように精力的に資料ずくりに取り組みます。 そうして、ヴィクトリア女王に面会しました。 当時、ナイチンゲール36歳。 一方、ヴィクトリア女王は37歳。 女王はナイチンゲールをすっかり気に入り、最大限の協力を約束しました。 ヴィクトリア女王は、幼少期より王女という身分から、打ち解ける親友がいるはずありません。 それ以降、女王はフローレンスと友人のように接するようになっていきます。 お忍びでナイチンゲール家の邸宅をしばしば訪れるようになり、さらには、馬車で散歩や王室のお茶会にも誘うようにもなったです。 陸軍改革 女王の後ろ盾を得たフローレンスは、各界から有識者をあつめ、陸軍の改革委員会を発足させます。 その有識者から集められた資料を照らし合わせ、事実を究明していきます。 少しでも疑問があれば、さらに調査を進めていくのです。 さらに、収集した膨大なデータを統計処理し、詳細な資料を作成していきました。 素人の政治家にもわかるように、円グラフや棒グラフによって表現するという方法も考え出しました。 このように統計をグラフ化したのは、ナイチンゲールが最初だといわれています。 しかし、それだではなく、統計学をさらに進歩させ、因果関係を特定していく手法も確立していくのです。 いつしか、文書は1000ページにもわたる報告書となりました。 そうして、政府内で、陸軍関係者への尋問が始まっていきます。 陸軍関係者は、事態を曖昧にして逃れようとします。 しかし、ナイチンゲールは検察官のように理詰めで矛盾点をついていくのです。 統計学者 そこから、統計学者ナイチンゲールの歩みも始まります。 かつてフローレンスが少女時代に魅了された言葉があります。 霜が降りなくなった日からの、一日ごとの平均気温の二乗を合計していき、それが4264になればライラックは開花する。 近代統計学の父 ケトレー ケトレーは、近代統計学の父と言われるベルギーの数学者です。 天文学や気象学をはじめ、多くの分野に統計的を導入し、統計学の黎明を築きました。 フローレンスは、少女時代からケトレーの統計学に魅了されて、クリミアにもケトレーの統計学書を持参していました。 そこから、ケトレーの研究を応用し、医学や看護データを統計的に処理していきます。 史上はじめての統計のグラフ化をはじめ、データを元に有意差を計算し因果関係を特定までに発展させていくのです。 その手法は20世紀にさらに発展し、公害病の原因特定や、マーケティング、証券分析をはじめ、あらゆる分野に適応されていきます。 さらには、当時は薬効が信じられていたタバコの毒性も暴いていくことになるのです。 「白衣の天使」ナイチンゲール-祖国イギリスでは統計学の先駆者として今も人々の記憶に刻まれています。 ケトレーが近代統計学の父なら、ナイチンゲールは近代統計学の母と行っても過言ではありません。 ナイチンゲールはイギリスの王立統計協会で初めての女性会員となります。 ロンドンで国際統計会議が開催された際には、ケトレーとともに病院評価のための統一的な基準を採択しました。 後年、アメリカ統計学界の名誉会員にも推挙されることにもなります。 重病 しかし、フローレンスを、高熱、動機、呼吸困難が襲います。 背中や関節に激痛がはしり、寝返りをうつことすら困難になっていったのです。 次第に意識を失い小康状態となっていきました。 病気は、クリミアの風土病であるブルセラ症と考えられています。 それは、ブルセラ菌によって引き起こされる人畜共通の感染症で、現在では抗生物質により治療が可能です。 しかし、当時はまだ細菌すら発見されてはいなかったのです。 辛うじて一命は取り留めたものの、その後は人生の大半を自室で篭もることになっていくのです。 『小陸軍省』 フローレンスは、仕事のためロンドンのホテルに移り住んでいきます。 その中で膨大な業務を遂行していくのです。 いつしか、彼女の自室は『小陸軍省』と呼ばれ、イギリス政界に極めて大きな影響を及ぼすようになっていきます。 病身のフローレンスは、友人に会いにいくことも、パーティーに行くこともなくなります。 しかし、世界各国の政府関係者や学者が面会に訪れるようになったのです。 余暇を満喫する母と姉 母や姉もホテルに移り住み余暇を満喫します。 フローレンス・ナイチンゲールの名は世界的に著名となり、ヴィクトリア女王とも親交を深まり、伝説的な存在となっていました。 フローレンスの母や姉というステータスは絶大であり、社交界からひっきりなしに誘いが来ます。 そのような母と姉に、フローレンスは反発を抱きます。 かつて看護師を志した『私』も、世界各国から要人が訪れるようになった『私』も同じ『私』。 なのに、どうしてこうまでも態度を変えるのか。 周囲との軋轢 自室に篭もったまま、膨大な執筆や、政府関係者への指示が発せられていきました。 もともと、フローレンスを駆り立てた背景にはキリスト教信仰があることは疑いありません。 しかし、その宗教的情熱は、フローレンス近くの人間を容赦無く巻き込み、消耗させていきます。 幼少期からフローレンスのそばに付そっていた叔母も疲れはて離れていきました。 手伝いにきたいとこにも『あなたには、もっと自分の才能を生かせる仕事をしなさい』と冷たく家に帰します。 長期にわたり努めていた助手も静養のため仕事を辞しました。 過労で仕事が停滞したシドニー・ハーバート大臣には『重病といえども仕事はできるということはこの私 で証明済みなのだ』と容赦ない非難を浴びせていきます。 衰弱しきったハーバート大臣は、ついに51歳の若さで早逝しました。 『戦友』のハーバート死去の知らせを聞いたフローレンスは、茫然自失に陥っていくのです。 改めて、ハーバートの存在の大きさを思い知るのです。 その時すでに、フローレンスの感情の起伏が激しく攻撃的な性格から、多くの人が去っていました。 応援クリックして頂けると励みになります.

次の