インパール 作戦 と は。 なぜインパール作戦は失敗してしまったのですか?

悲惨なインパール作戦、インドからはどう見えるのか

インパール 作戦 と は

第2次世界大戦中の日本軍のインド作戦の名称。 英語では「日本軍のインド進攻」 Japanese invasion of Indiaとして知られる。 1944年3月6日,中将指揮下の第 15軍が,からを渡って,2手に分れ,を目指した。 日本軍には,・のが参加した。 日本軍は6月 22日まで,インパールを 88日間にわたってしたが,第 33師団長柳田元三中将は状況判断を誤って包囲を解き,中止を。 その直後イギリス=インド軍の W. 中将指揮下の第 14軍は攻撃に転じ,7~8月にかけて第 15軍を壊滅させ,インパールのに成功した。 イギリス=インド軍の死傷者は1万 7587人に対し,日本軍はまたは行方不明2万 2100人, 8400人,戦傷者約3万人と推定される損害をこうむった。 この作戦の失敗は,のちにビルマ防衛戦の全面的崩壊をもたらした。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 太平洋戦争の末期、日本軍により実施された東インドのインパールに対する進攻作戦(ウ号作戦と呼称)。 同方面を根拠地とするイギリス・インド軍のビルマ(現ミャンマー)進攻作戦を未然に防止し、あわせての自由インド仮政府支援のため、インド領内における足場を確保することを目的として計画され、1944年(昭和19)1月、大本営の認可するところとなった。 同作戦を担当した第一五軍(司令官牟田口廉也 むたぐちれんや 中将)は、同年3月に行動を開始し、4月にはインパール付近の地点にまで進出したが、航空兵力の支援を受けたイギリス・インド軍の強力な反撃と補給の途絶とによって、しだいに守勢に回り、7月には退却命令が下され、飢えと病気により多数の将兵を失った悲惨な退却戦が開始される(死傷者数7万2000人)。 日本軍の戦闘能力を過信し補給を無視して計画・実施されたこの作戦は、日本軍の作戦指導の硬直性を暴露し、その失敗によりビルマ防衛計画を崩壊に導いた。 [吉田 裕] 『丸山静雄著『インパール作戦従軍記』(岩波新書)』 出典 小学館 日本大百科全書 ニッポニカ 日本大百科全書 ニッポニカ について 世界大百科事典 内のインパール作戦 の言及.

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5分でわかるインパール作戦!真実は?経過と結果などをわかりやすく解説

インパール 作戦 と は

日本陸軍によるインド侵攻構想 1944年(昭和19年)3月8日に日本陸軍により開始された日本側作戦名・ウ号作戦のことをインパール作戦と言います。 ビルマ攻略戦が予定より早く終結したため、インド侵攻作戦の構想を持っていた日本陸軍がインド北東部でビルマから近い位置にあるイギリス陸軍の拠点であるインパールの攻略を目的とした作戦を具体化させ、 二十一号作戦として準備が開始されました。 この作戦には第15師団と第18師団の2個師団が当てられることとになりましたが、 第18師団長であった牟田口廉也中将や第15師団長が雨季による補給の困難などを理由に反対を唱えたのと、ガダルカナル島の戦いの戦局が予断を許さなくなったため、二十一号作戦は一旦保留となります。 インパール作戦の立案 1942年(昭和17年)10月に入るとイギリス陸軍の日本軍への反撃が開始され、太平洋ではアメリカ軍との戦闘が激しくなり、日本陸軍は防衛体制の刷新に迫られます。 その結果、1943年3月に 河辺正三(かわべまさかず)中将を方面司令官にしたビルマ方面軍が創設され、所属部隊の第15軍司令官に牟田口中将が就任しました。 太平洋および東南アジアでの戦局を考慮した牟田口中将は、以前のインド侵攻に反対する立場からイギリス軍の拠点であるインパールを攻略し、インドへの侵攻を主張するようになっていました。 牟田口中将は日本軍がインパールを占領し、インドのアッサム地方へ進出すればインド独立運動が活発化し、イギリス軍の行動が制約されると考えていたからです。 牟田口中将はこれを武号作戦と名付けて推進しようとしましたが、第15軍参謀長・小畑信良(おばたのぶよし)が強硬に反対したため、牟田口中将は河辺司令官の承諾を得て、着任してわずか1月半の小畑少将を解任しました。 動き出したインパール作戦 太平洋での対米戦略で人材や兵力、装備を引き抜かれた後に創設されたビルマ方面軍は、アジア地域の地理や戦局、政治情勢に疎い幹部が集結することになり、古参である牟田口中将の存在価値が高くなりました。 その上、反対派の小畑少将が解任されたため、誰も牟田口中将に反対することが難しくなります。 南方軍首脳部も大本営参謀部も基本的にはこの作戦を支持していたのですが、インパール攻略後のアッサム地方への進出は兵站(へいたん、補給や全線部隊への後方支援のこと)の点から難しいと問題視されていました。 しかし、河辺ビルマ方面軍司令の最終判断は我らが決断するの言葉でこれ以上の論議が遮られました。 1943年8月、インパール侵攻の準備命令を出した大本営に、南方軍司令部はあくまでもインパールへの限定侵攻との修正を出しますが、河辺ビルマ方面軍司令官は修正をすることはなく、第15軍牟田口中将もアッサム侵攻を諦めることなくこの修正を完全に無視しました。 悲劇の進行作戦開始 牟田口司令官は各部隊長を召集した命令伝達の中で、「物資や食料は敵に求める」「敵に遭遇したら銃を空に3発撃て。 そうすれば敵は降伏する話がついてる。 」と発言し、部隊長らはこの発言に牟田口司令官の本心を疑わざるをえませんでした。 1944年(昭和19年)1月、ついに大本営から作戦遂行の命令がくだされ、南方軍に発令されました。 太平洋ではアメリカ軍に対して不利な戦闘を続けており、敗色が濃厚になる中で戦局打開を期待する首脳部の思惑も重なった上に、1943年10月に作戦実行に強硬な反対をしていた南方軍の稲田正純(いなだまさずみ)総参謀副長が解任され、インパール作戦に反対する声はなくなってしまいました。 インパール作戦開始前に行われたハ号作戦(インド国境に駐留するイギリス軍殲滅作戦)が失敗に終わったにも関わらず、本作戦は中止どころか修正案すらされることはありませんでした。 作戦開始時の状況 日本軍の参加兵力は第15軍49,600人を主力とした90,000人、これにインド独立を支持するインド国民軍6,000人が加わっていました。 連合国軍はインド駐留イギリス軍を中心に約15万人が待機しており、空輸による補給体制や重火器も装備されており反撃体制は整っていました。 1944年3月8日、輸送部隊の補充も物資の補給もままならないままに侵攻作戦が開始され、三方面からインパールを目指して進軍を開始しました。 しかし、 開始直後は順調であった作戦もすぐに破綻し始めます。 物資不足を補うために考案されたジンギスカン作戦(牛や水牛、羊に荷物を積んで運び、必要に応じて牛や羊を食用に利用する)はチンドウィン川渡河作戦で物資の大半が失われ、進路途中のジャングルや山岳地帯のために次々と脱落し失敗に終わります。 日本軍の進軍中に行われる連合国軍の爆撃や輸送部隊の壊滅によって兵士自らが物資輸送を担当することにより、前線に部隊が展開するときには日本軍の兵士は疲労のピークに達していました。 膠着状態に陥った戦線 物資や弾薬の不足する前線部隊は司令部に補給を求めますが、司令官の牟田口中将は至急送るとの返信しましたが司令部から十分な物資が送られることはありませんでした。 あげくには食料は敵から奪えとの命令が届きます。 戦車や強力な火砲で守りを固めるイギリス軍は制空権を握る連合国軍の空輸による補給で長期戦に耐えられる状況となり、戦線は膠着状態に陥ります。 物資の不足する日本軍は、投下される連合国軍の物資を略奪する特別部隊を編成するなどして飢えに耐えますが、日本軍がインパールから15㎞地点に到達したところで連合国軍の反撃が激しくなり、進撃の足が止まっしまいました。 雨季に入り、日本軍の補給線が伸びきったところでイギリス軍の本格的な反抗作戦が始まると、空爆やイギリス陸軍の進撃により日本軍の部隊はあちらこちらで寸断されていきます。 このため補給が完全に途絶えてしまう部隊が続出し、衰弱した兵士の間でマラリアの感染が拡大し作戦続行が徐々に不可能になっていくのでした。 牟田口司令官と佐藤師団長の対立 戦線の維持が難しい状況になっても牟田口中将はインパール侵攻を諦めず、各部隊に前進を言明します。 しかしこの時、牟田口中将がいた第15軍司令部は前線から離れること400㎞も後方にあり、軍部全体からの風当たりが強くなったため、 牟田口中将は司令部を前進させインパール侵攻を続行させます。 マラリアの拡大、戦病者の増加などのなかで、弾薬が尽きて投石で戦闘する部隊が現れるに至って、第31師団長・佐藤幸徳(さとうこうとく)中将は再三再四、司令部に対して撤退を進言します。 しかし、 牟田口司令官はこれを拒絶し作戦続行を命令したため、佐藤師団長は指揮下の部隊長を集めて撤退を指示、司令部に対して「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。 いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。 これを見て泣かざるものは人にあらず」の電文を送り、司令部の命令なく独断で撤退を開始しました。 日本陸軍初の抗命事件、そして撤退 佐藤師団長の撤退命令は司令部の命令を無視、拒絶するという陸軍刑法第42条に反しており、師団長という要職の人物が命令に従わない日本陸軍最初の抗命事件となりました。 牟田口司令官はこれに激怒して佐藤師団長を更迭、また第33師団長・柳田元三(やなぎたげんぞう)中将、第15師団長・山内正文(やまうちまさふみ)中将も佐藤師団長と同様に撤退を進言したため、牟田口司令官はこの二人も更迭し、第15軍は実質的に崩壊してしまいました。 ここに至って作戦の失敗、部隊の撤退の必要は火を見るよりも明らかでしたが、河辺ビルマ方面軍司令官と牟田口中将はお互いが責任を負うことを恐れて撤退を口に出せず、むやみに時間だけを費やしてしまい、その間にも前線での死者は増え続けていたのです。 7月3日、軍部は遂に作戦中止を決定して各部隊に通達、参加90,000人に対して帰還者12,000名という状態で、帰還兵もほとんどが傷つき、杖を頼りに歩くのがやっとという惨状だったと言われています。 牟田口廉也という人物を表した言葉 撤退した部隊長を召集した訓示で牟田口中将は次のように述べています。 「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。 食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。 これが皇軍か。 皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。 兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。 弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。 銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。 腕もなくなったら足で蹴れ。 足もやられたら口で噛みついて行け。 日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。 日本は神州である。 神々が守って下さる…」 出典元:『責任なき戦場』 作戦立案の不備や司令部の判断などよりも精神論が陸軍の原泉であるという考え方が中将という高級軍人のなかにもあったのでは、近代化していった第二次世界大戦を勝利することは出来なかったのは当然ではないでしょうか。 インパール作戦に関わった人物のその後 牟田口廉也中将 インパール作戦失敗の後の1944年8月、第15軍司令官を罷免されて参謀本部附となり、12月には予備役となる。 1945年1月予備役召集で陸軍予科士官学校長となりそのまま終戦を迎える。 河辺正三中将 インパール作戦失敗後はビルマ方面軍司令官は解任されたが、翌年3月には大将に昇進、終戦時は第1総軍司令官だった。 佐藤幸徳中将 第31師団長解任後、抗命事件により軍法会議も覚悟していたが、精神鑑定に回され第16軍司令部附となり終戦となる。 柳田元三中将 第33師団長解任後参謀本部附となり、翌年予備役となる。 その後召集されて旅順要塞司令官、関東州防衛司令官を歴任し、終戦後ソ連に抑留され1952年モスクワで死去。 山内正文中将 第15師団長解任後参謀本部附となりますが、作戦中に感染したマラリアの療養のため収容されていた病院で結核に感染し死去。 作戦に参加した他の人物 塚本幸一(つかもとこういち) 女性下着メーカー・ワコールの創業者。 第15師団歩兵第60連隊に所属、講演や著書でインパール作戦の体験を語っている。 吉原正喜(よしはらまさき) プロ野球・東京巨人軍捕手。 インパール作戦に従軍し、作戦終了後のビルマでの戦闘で戦死、遺骨は発見されていない。 東学(あずままなぶ) サザエさんを代表作に持つ漫画家・長谷川町子(はせがわまちこ)の姉・長谷川毬子(はせがわまりこ)の夫。 毬子と結婚後わずか一週間で召集され、インパール作戦で戦死。 インパール作戦の逸話 第33師団に着任した田中信男(たなかのぶお)少将が部隊を視察すると中隊長の軍刀が錆びているのを発見し、師団所属の将校全ての軍刀の検査をすると全員の軍刀が錆びていました。 激怒した田中少将は全ての部隊長を呼び集め、すぐに軍刀の錆を落とすことを命じたましたが、誰一人として命令に従わなかったそうです。 豪雨と泥沼の戦闘が続く戦場では錆を落としてもすぐに錆びてしまうことを将校たちが経験し知っていたからです。 作戦中止と撤退が決定し、前線の兵士が撤退し始めると牟田口司令官は撤退作戦視察のため馬に乗って出掛けました。 撤退する兵士は疲弊しきって、ほとんどのものが歩くのがやっとの状態のなかで撤退していました。 牟田口司令官が「軍司令官たる自分に最敬礼せよ」と大声で命令を出しましたが、兵士はただ声を大にして叫ぶ軍司令官の方を冷ややかな虚ろな目で見るのみで、誰一人として敬礼しようとはしませんでした。 悲惨を極めた退却戦の中で佐藤師団長の命令で、殿軍を務める事になった 宮崎繁三郎(みやざきしげさぶろう)少将は歩兵第58連隊を率いて大砲を細かく移動させ、多くの火力が存在するように見せかけたり、兵士を突出させたり引き揚げたりと巧みな用兵でイギリス軍を翻弄し、追撃戦を躊躇させることに成功し、味方が撤退する時間的な余裕を作り出すことに成功します。 また 宮崎少将は脱落しそうな兵士も見捨てずに収容して多くの兵士の命を救いました。 インパール作戦のまとめ 立案時点ですでに数多くの問題点を抱えていながら、太平洋戦争全体が敗戦の色を濃くするなかで、日本陸軍が無理矢理に実行したのがインパール作戦です。 当初の予測通り燃料、弾薬などの物資不足、行軍行程の無理が祟って失敗に終わりました。 動員兵力の7割以上を失い、全く何も得ることがなかったにも関わらず、指揮官の誰一人として責任を取らず終結させてしまうという、あまりにも無責任な作戦として歴史にその名を残すことになりました。 このインパール作戦を見るだけでどれほど日本軍軍部首脳が無能であり、日本が太平洋戦争に勝てる可能性が全く無かったと思えるほど、ずさんで悲惨な戦闘だったのです。

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THE ALLIED REOCCUPATION OF THE ANDAMAN ISLANDS, 1945

インパール 作戦 と は

上層部の人間関係が優先された意思決定 かつてビルマと呼ばれていた、インドシナ半島西に位置するミャンマー。 1944年3月に決行されたインパール作戦は、川幅600mにもおよぶ大河と2000m級の山を越え、ビルマからインドにあるイギリス軍の拠点インパールを3週間で攻略する計画だった。 しかし、日本軍はインパールに誰1人、たどり着けず、およそ3万人が命を落とした。 インパール作戦は、極めて曖昧な意思決定をもとに進められた。 1942年1月、日本軍はイギリス領ビルマに進攻し、全土を制圧。 イギリス軍はインドに敗走した。 日本軍の最高統帥機関である大本営はインド進攻を検討するが、すぐに保留。 しかし、1943年に入ると太平洋でアメリカ軍に連敗。 戦況の悪化が再び計画を浮上させる。 そのころ、アジアでも体制を立て直したイギリス軍が、ビルマ奪還を目指し反撃に出ていた。 1943年3月、大本営はビルマ防衛を固めるために、ビルマ方面軍を新設。 司令官に就任した河辺正三は着任前、首相の東條英機大将に太平洋戦線で悪化した戦局を打開してほしいと告げられていた。 さらに河を渡った兵士たちの目の前には、標高2,000メートルを超える山が幾重にも連なるアラカン山系。 車が走れる道はほとんどないため、トラックや大砲は解体して持ち運ぶしかなく、崖が迫る悪路の行軍は、想像を絶するものだったという。 大河を渡り、山岳地帯の道なき道を進む兵士たちは、戦いを前に消耗していった。 作戦開始から2週間。 インパールまで直線距離110キロの一帯で、日本軍とイギリス軍の最初の大規模な戦闘が起こる。 南からインパールを目指した第33師団は、イギリス軍の戦車砲や機関銃をあび、1,000人以上の死傷者を出す大敗北を喫した。 第33師団の柳田元三師団長は、「インパールを予定通り3週間で攻略するのは不可能だ」として、牟田口司令官に作戦の変更を強く進言。 牟田口司令官のもとには、ほかの師団からも作戦の変更を求める訴えが相次いでいたという。 牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、牟田口司令官と参謀との間で頻繁に語られていたある言葉を記録していた。 「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5,000人殺せばとれると思います』と返事。 最初は敵を5,000人殺すのかと思った。 それは、味方の師団で5,000人の損害が出るということだった。 まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。 参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした。 」(齋藤博圀少尉の回想録) 作戦継続に固執した大本営 インパール作戦は敵国イギリス軍の戦力を軽視した戦いでもあった。 終戦直後、イギリスなど連合軍がインパール作戦に関わった日本軍の司令官や幕僚17人から、その内実を密かに聞き取っていた資料が見つかった。 この中でインパール作戦の勝敗の鍵を握ったある戦いについて細かく聞き取られていた。 3週間で攻略するはずだったコヒマ。 ここでの戦闘は2か月間続き、死者は3,000人を超えた。 しかし、太平洋戦線で敗退が続く中、凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道された。 日本軍の最高統帥機関、大本営は戦場の現実を顧みることなく、一度始めた作戦の継続に固執していた。 東條大将の元秘書官は、現地で戦況を視察した大本営の秦中将が東條大将に報告したときの様子を語っている。 「報告を開始した秦中将は『インパール作戦が成功する確率は極めて低い』と語った。 東條大将は、即座に彼の発言を制止し話題を変えた。 わずかにしらけた空気が会議室内に流れた。 秦中将の報告はおよそ半分で終えた。 」(元秘書官 西浦大佐の証言) この翌日、東條大将は天皇への上奏で現実を覆い隠した。 「現況においては辛うじて常続補給をなし得る情況。 剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」(上奏文) 作戦開始から2か月が経過した1944年5月中旬。 牟田口司令官は、苦戦の原因は師団長、現場の指揮官にあるとして、3人の師団長を次々と更迭。 作戦中にすべての師団長を更迭するという異常な事態だった。 さらに牟田口司令官は自ら最前線に赴き、南からインパールを目指した第33師団で陣頭指揮を執る。 全兵力を動員し、軍戦闘司令所を最前線まで移動させることで、戦況の潮目を一気に変える計画を立てたのだ。 しかし、牟田口司令官の作戦指導はイギリス軍の思惑通りだった。 「われわれは、日本軍の補給線が脆弱になったところでたたくと決めていた。 敵は雨期までにインパールを占拠できなければ、補給物資を一切得られなくなることは計算し尽くしていた。 」(ビルマ奪還に当たっていたイギリス軍のスリム司令官の証言) インパールまで15キロ。 第33師団は、丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようと試みる。 この丘は、日本兵の多くの血が流れたことから、レッドヒルと呼ばれている。 作戦開始から2か月、日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。 牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。 武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、1週間あまりで少なくとも800人が命を落とした。 「白骨街道」と呼ばれた撤退路 1944年6月、インド、ビルマ国境地帯は雨期に入っていた。 この地方の降水量は世界一と言われている。 当時の降水量のデータを解析すると、その前のひと月の降水量は、すでに1,000ミリを超え、30年に1度の大雨。 3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3か月、1万人近くが命を落としていたと見られる。 司令官たちはそれでも作戦中止を判断しなかった。 6月5日、牟田口司令官のもとにビルマ方面軍の河辺司令官が訪れた。 お互い作戦の続行は厳しいと感じながら、その場しのぎの会話に終始した。 2人が作戦中止の判断を避けたあとも、戦死者はさらに増えていった。 大本営が作戦中止をようやく決定したのは7月1日。 開始から4か月がたっていた。 しかし、インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていく。 実に戦死者の6割が、作戦中止後に命を落としていったのだ。 戦死した兵士を示した地図 レッドヒル一帯の戦いで敗北した第33師団は、激しい雨の中、敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされた。 チンドウィン河を越える400キロもの撤退路で兵士は次々に倒れ、死体が積み重なっていった。 腐敗が進む死体。 群がる大量のウジやハエ。 自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を「白骨街道」と呼んだ。 一方、コヒマの攻略に失敗した第31師団。 後方の村に食糧の補給地点があると信じ、急峻な山道を撤退した。 しかし、ようやくたどり着いた村に、食糧はなかった。 分隊長だった佐藤哲雄さん(97)は、隊員たちと山中をさまよった。 密林に生息する猛獣が弱った兵士たちを襲うのを何度も目にしたという。 「(インドヒョウが)人間を食うてるとこは見たことあったよ、2回も3回も見ることあった。 ハゲタカも転ばないうちは、人間が立って歩いているうちはハゲタカもかかってこねえけども、転んでしまえばだめだ、いきなり飛びついてくる。 」(佐藤さん) 衛生隊にいた望月耕一(94)さんは、武器は捨てても煮炊きのできる飯盒を手放す兵士は 1人もいなかったという。 望月さんは、戦場で目にしたものを、絵にしてきた。 最も多く描いたのが、飢えた仲間たちの姿だった。 「(1人でいると)肉切って食われちゃうじゃん。 日本人同士でね、殺してさ、その肉をもって、物々交換とか金でね。 それだけ落ちぶれていたわけだよ、日本軍がね。 ともかく友軍の肉を切ってとって、物々交換したり、売りに行ったりね。 そんな軍隊だった。 それがインパール戦だ。 」(第31師団 衛生隊 元上等兵 望月耕一さん(94)) 作戦中止後、牟田口司令官は、その任を解かれ、帰国した。 牟田口司令官に仕え、「味方5千人を殺せば陣地をとれる」という言葉を記録していた齋藤博圀少尉は、前線でマラリアにかかり置き去りにされた。 雨期の到来後、マラリアや赤痢などが一気に広がり、病死が増えていった。 死者の半数は、戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われていたのだ。 前線に置き去りにされた齋藤博圀少尉は、チンドウィン河の近くで、死の淵をさまよっていた。 「七月二十六日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具をふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。 修羅場である。 生きんが為には皇軍同志もない。 死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。 野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。 私も恥ずかしくない死に方をしよう。 」 齋藤博圀少尉の日誌 死者の3割は、作戦開始時に渡ったチンドウィン河のほとりに集中。 いったい何人がこの河を渡ることができたのか、国の公式の戦史にもその記録はない。 作戦の責任を転嫁する上層部 太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。 戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。 軍の上層部は戦後、この事実とどう向き合ったのか。 牟田口司令官が残していた回想録には「インパール作戦は、上司の指示だった」と、綴られていた。 一方、日本軍の最高統帥機関・大本営。 インパール作戦を認可した大陸指には、数々の押印がある。 その1人、大本営・服部卓四郎作戦課長は、イギリスの尋問を受けた際、「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われ、次のように答えている。 「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない。 インパール作戦は、大本営が担うべき責任というよりも、南方軍、ビルマ方面軍、そして、第15軍の責任範囲の拡大である。 」(大本営 服部卓四郎 作戦課長) 牟田口司令官に仕えていた齋藤博圀少尉は、敗戦後連合軍の捕虜となり、1946年に帰国。 その後、結婚し家族に恵まれたが、戦争について語ることはなかった。 73年前、23歳だった齋藤元少尉は死線をさまよいながら、戦慄の記録を書き続けた。 「生き残りたる悲しみは、死んでいった者への哀悼以上に深く寂しい。 国家の指導者層の理念に疑いを抱く。 望みなき戦を戦う。 世にこれ程の悲惨事があろうか」.

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