マンビキ ランナー。 犬用ルームランナー(ランニングマシーン)おすすめベスト3

バトルランナー(映画)

マンビキ ランナー

生涯 [ ] 生い立ち [ ] 当時のショア州(現在はの ()))にあるデュノバのジョル村で生まれる。 家は貧しい小作農で、家族は当時のである(エチオピア正教会)の信者でもあった。 小学校には1年通っただけで早くから家業の手伝いをしていた。 19歳の時、皇帝の親衛隊に入隊し、の部隊で訓練を受けることとなる。 10ヶ月の訓練期間の後、当時エチオピアが参加していたとして、に従軍するためまで派遣されるが、ほどなく休戦となり帰国した。 マラソン選手へ [ ] 帰国後、親衛隊で訓練の一環として各種スポーツのトレーニングを受ける。 その中で、足の速さが上官から注目されるようになる。 5月、四軍(陸海空および親衛隊)の陸上競技大会に親衛隊から選抜されて出場、マラソンで2位となり、の陸上強化選手に選ばれる。 ここで出身の専任コーチであるオンニ・ニスカネン(Onni Niskanen、1910 - 1984)の指導を受ける。 ニスカネンはやを取り入れた科学的な練習を施した。 強化選手となった当初はアベベは目立った選手ではなく、親衛隊で同期(部隊は別)だったの方が長距離選手としては期待されていた。 しかし、に入ってアベベはニスカネンから特別メニューでのトレーニングを受けることになる。 その理由については、アベベはニスカネンの指導を理解して吸収する能力に優れていたからではないかと記している。 ニスカネンはローマオリンピックのマラソンコースを視察すると、それに似た練習コース(フルマラソンより1km長い)をエチオピアのキャンプ地近くに作って走らせた。 7月にローマオリンピックの国内予選会で2位となり、マラソン代表に選出された。 ローマオリンピックでの金メダル [ ] 1960年9月のローマオリンピックに際しては、偶然に靴が壊れたため(さらに現地で新しい靴を買おうと思ったが自分に合うものがなかったため)裸足で走ることとなった。 もともとアベベは子どもの頃から裸足で野山を駆け回っており、足の裏の皮は厚く、裸足で走ることに慣れていた。 アベベはスタート当初は最後方に位置し、競技場を出ても最後方のままであったが、15kmを過ぎて先頭集団に入り、30kmでトップに出るとあとはそれを譲ることなく、当時の世界最高記録となる2時間15分16秒2で優勝した。 レース前には全く無名で、アベベが先頭集団に加わると「あれは誰だ」という声が沿道からあがり、プロフィールにもほとんど記載のないアベベがゴールのに入ってきたとき各国の報道関係者も騒然となった。 アベベはゴール後に「まだ余力はある。 走れと言われればもう20kmぐらい走れる」と話した。 からまでに侵略、占領されていたエチオピア国民は、アベベの優勝に熱狂し、アベベはエチオピアの英雄となった。 この功績により、帰国したアベベはハイレ・セラシエ皇帝に拝謁し、勲章を授与された。 また半年後には兵卒からに昇進している。 この1960年は17のアフリカの国が独立を達成して と呼ばれ、アフリカ史において重要な年となった。 アベベの優勝は、アフリカの高地民族がへの適性を持つことを世界に知らしめた。 また、エチオピアの国土が空気の薄い標高2,000m前後の高地にあり、そこでトレーニングを積んだことで心肺機能が高められたのではないかという見解が示され、陸上競技に高地トレーニングが導入されるきっかけとなった。 東京オリンピックでのマラソン連覇まで [ ] 東京オリンピックで甲州街道を走る(1964年) オリンピックチャンピオンとなったアベベには世界からレースへの招待状が届いたが、ニスカネンはその中から出場レースを慎重に選んだ。 その一つに日本の毎日マラソン(現・。 当時はで開催)が含まれていたのは、次回のオリンピック開催国を下調べするチャンスという意図があった。 2位には同僚のワミが入っている。 アベベ見たさに押し寄せた自動車やオートバイの排気ガスが記録を低調にしたとされ、かねてから交通事情悪化に悩まされていた毎日マラソンは、これを契機に翌年よりに開催地を変更している。 オニツカタイガー(現・)社長だったは、ローマオリンピックの際にマラソン日本代表に靴を提供していたが、彼らが惨敗する一方で裸足のアベベが優勝したのを見て衝撃を受け、「アベベに靴を履かせたい」と考えていた。 毎日マラソンの折に、の紹介で社員をアベベとワミに面会させ、オニツカタイガーの靴を提案したところよい反応だったため、足形を取って靴を作って届けるとアベベは「こんな素晴らしい靴を履けるとは思わなかった」と喜んだという。 しかし東京オリンピックの際にはアベベはすでに契約していたのシューズで参加した(銀メダルのと銅メダルのはともにオニツカタイガーを履いていた)。 当時の日本ではの高さから、専属スポンサー契約を結べる環境になかった。 また、1961年には出場した3つのレースすべてで優勝を飾ったが、1962年はレースに出場せず、1963年のは5位とふるわなかった。 国民の期待や、走ることで得た地位から来る重圧があった。 このころ、妻には「走ればまた勝つと思われているっていうのは辛いことだな」という言葉も漏らしたという。 ローマで樹立した記録は1963年2月にが更新、その後もやが短期間に記録を塗り替えていた。 1964年春、アベベはに昇進した。 5月にアディスアベバで1年ぶりにマラソンを走って優勝。 8月のの国内予選では自己2位となる2時間16分18秒8で優勝し、代表に選ばれる。 しかし、競技の6週間前にの手術を受け、ニスカネンの立てた練習スケジュールは大きく狂った。 このため、日本の代表選手のコーチたちも「アベベはマークの対象にしていなかった」とのちに語っている。 アベベはエチオピア選手団の一員として9月29日に来日し、選手村や隣接した織田フィールドで毎日走った。 10月10日の開会式ではエチオピア選手団の旗手を務めている。 10月21日の東京オリンピックマラソン本番では、20km地点辺りから独走態勢に入り、全く危なげのないレース運びで 、ヒートリーの記録を1分44秒縮める2時間12分11秒2の世界最高記録で再び金メダルを獲得した。 近代オリンピック史上、マラソンの種目で二連覇はアベベが初めての快挙であった。 それ以後、オリンピックのマラソン競技で世界(最高)記録を樹立したランナーは出現していない。 アベベはゴールした後に疲れた様子も見せずに整理体操を始め、7万人の観衆を驚かせた。 後にアベベは「まだあと10キロは走れた」と語っている。 メキシコオリンピックで途中棄権 [ ] 再度の金メダルにより、アベベはに昇進する。 また、親衛隊の体育教官補佐ともなった。 このときアベベに貸与された自動車()がのちに悲劇につながることとなる。 東京オリンピック後もアベベはマラソンで優勝を重ねた。 1965年には、大阪府から滋賀県にコースを移した毎日マラソンに4年ぶりに参加、28度の高温という条件のため記録は平凡だったものの、独走であった。 1966年のソウル国際マラソンでも優勝したが、日本から参加したのコーチであるは、レース中にアベベが監督車に乗ったニスカネンから叱責される光景を目にして、遠からずアベベも敗れるだろうという思いを抱いたと記している。 1967年のサラウスマラソンでは途中棄権した。 この間、に昇進している。 10月のでも、アベベは3大会連続でエチオピアのマラソン代表に選ばれたが、トレーニング中に左膝を痛めていた。 走り込みの不足や36歳という年齢による体力の衰えもあり、史上初の五輪マラソン3連覇は不安視されていた。 結局メキシコ五輪マラソン本番では16kmで歩き出し、17km地点で棄権した。 なおこの大会では同じエチオピア出身で同僚のが優勝し、エチオピアにオリンピック3連覇をもたらしている。 結果は残せなかったものの、アベベは帰国後にマモとともにハイレ・セラシエ皇帝に招かれ、その席でに昇進した。 自動車事故 [ ] しかし、メキシコ五輪から約半年後の3月23日の夜、アベベはアディスアベバから北に約70km離れたシャノという町の北方で、自動車運転中に事故を起こす。 生命に別状は無かったが、第七が完全にするを負ったことにより、下半身不随となってしまう。 なお国民に動揺を与える不安から、事故の事実は6日後になって初めて公表された。 事故後にアベベが語ったところでは、対向車の前照灯に目がくらんで運転を誤ったという。 これについてはアベベを妬む者の陰謀説が存在するが真相は今も定かではない。 アベベは事故公表直後に郊外のストーク・マンデビル病院に入院し、8ヶ月間治療とリハビリテーションを受ける。 その治療はマラソンのトレーニング以上に過酷なものであったと家族に語ったという。 この間、病院で開かれた(当時「パラリンピック」と呼称されていたが、現在ののことではない。 詳細はパラリンピックの項を参照)に参加し、11月にエチオピアに帰国した。 翌もストーク・マンデビル競技大会に参加、このときはエチオピア選手団の総監督も務めている。 にはで開催された身障者スポーツ週間のに参加して優勝を果たした。 ミュンヘンオリンピック~晩年 [ ] 9月のでのアベベは、組織委員会から過去の著名な金メダリストの一人として招待を受け、の姿で開会式にゲスト出演し、その後も会場で競技を観覧している。 自らが動けないことで「競技を見るのが辛かった」とのちに妻に語ったが、マラソンで同エチオピアのマモ・ウォルデが3位に入り銅メダルを獲得、アベベと同じく五輪二大会連続メダリストの快挙を大いに喜んでいた。 晩年のアベベはこのように体が不自由な状態ながらも、生涯スポーツに関わり続けようとしていた。 しかしミュンヘン五輪からわずか1年後の、アベベはにより首都にある陸軍病院にて41歳でその生涯を閉じたのだった。 因果関係は明確ではないものの、自動車事故の後遺症が脳出血の遠因であるとみられた。 アディスアベバにはアベベの名前を冠した国立スタジアムがある。 人物 [ ] 筋力とスタミナの源は、小さな頃から家族を助けるために重い荷物を背負って長い山道を行き来する生活を送っていたことによる。 マラソン成績 [ ]• 自己最高記録…2時間12分11秒2(1964年10月) 年月 大会名 タイム 順位 備考 1960. 07 アディスアベバ 2:39:50 2位 ローマ五輪代表選考会 1960. 08 アディスアベバ 2:21:23 優勝 1960. 09 2:15:16. 2 優勝 世界最高記録 1961. 05 2:23:44. 6 優勝 1961. 06 2:29:27 優勝 1961. 10 コシチェマラソン 2:20:12 優勝 1963. 04 2:24:43 5位 1964. 05 アディスアベバ 2:23:14. 4 優勝 1964. 08 アディスアベバ 2:16:18. 8 優勝 東京五輪代表選考会 1964. 10 2:12:11. 2 優勝 世界最高記録、史上初の五輪連覇 1965. 05 毎日マラソン 2:22:55. 8 優勝 1966. 07 サラウスマラソン 2:20:28. 8 優勝 1966. 10 韓国国際マラソン 2:17:04 優勝 1967. 07 サラウスマラソン ----------- 棄権 1968. 09 アディスアベバ 2:25:04 優勝 メキシコシティ五輪代表選考会 1968. 10 ----------- 棄権 関連書籍 [ ]• 長岡民男『マスカルの花道 アベベの栄光と失意』、、1974• 『アベベを覚えてますか』、、1984. 、1992. 、2004. 9、 文庫判・新版、共に増補改訂。 著者はアベベの母や妻、やワミ・プラトにも直接取材している。 ティム・ジューダ『アベベ・ビキラ 「裸足の哲人」の栄光と悲劇の生涯』、秋山勝訳、、2011、• 草思社文庫、2019、• 11、。 脚注 [ ]• The Guardian. 2014年3月2日閲覧。 山田、2004年、P78。 英語版Wikipediaでは「Mendida郊外のJato村」としている。 「デュノバ」がDarNebbaとするとMendidaとは約20kmの距離。 「Jato」と「ジョル」とは表記の揺れとも考えられる。 いずれにせよ、アディスアベバからは北東に約150km離れている。 山田、2004年、P105 - 106。 エチオピアは皇帝親衛隊のみを国連軍に派遣した。 山田、2004年、P111。 山田、2004年、P114,142-143。 山田、2004年、P119。 このときの1位はローマオリンピックで7位となったアベベ・ワギラ(Abebe Wakgira)である。 山田、2004年、P115 - 116,138。 山田、2004年、P140。 毎日新聞社(編)『びわ湖毎日マラソン大会60年史』びわ湖毎日マラソン大会実行委員会、2006年• 79 - 81• 折山淑美『オニツカの遺伝子』ベースボール・マガジン社、2008年、pp. 99 - 100• 折山淑美『オニツカの遺伝子』ベースボール・マガジン社、2008年、p. 105• 山田、2004年、P153。 山田、2004年、P159。 監督ので確認できる。 ただ、途中の35km過ぎで突然後ろを振り返ってから5歩、6歩、と歩き又何事もなかったかのように走り出すという不思議な行動をみせた。 山田、2004年、P253。 こうした公用車を使えるのは本来佐官クラス以上であったという。 山田、2004年、P182(君原と高橋の共著『マラソンの青春』からの引用)。 山田、2004年、P218• 事故現場は周囲に人家などのまったくない原野で、アベベが発見されたのは翌朝になってからであった。 事故の目撃者は見つかっておらず、対向車の素性や事故発生時の詳細は現在も不明のままである。 山田、2004年、P211。 山田、2004年、P237 -239。 三上孝道『これだけは知っておきたい(11) オリンピックの大常識』株式会社ポプラ社、2004年、54ページ、 外部リンク [ ]• - バイオグラフィーとオリンピックでの成績 (英語)•

次の

映画『フッド:ザ・ビギニング』公式サイト

マンビキ ランナー

日曜昼のの名物番組『ザ・ノンフィクション』が、一昨年、昨年と立て続けに万引きで逮捕されたマラソンランナーの氏に密着。 衝撃的な内容に視聴者から驚きの声が上がっている。 原氏は中学時代に頭角を現し、2005年に名古屋国際女子マラソン、07年には大阪国際女子マラソンで優勝。 世界陸上代表にも2大会連続で選出された日本を代表するマラソンランナーだった。 しかし、17年7月に窃盗の疑いで逮捕され、18年2月に再び窃盗で逮捕。 番組は、そんな原氏の姿を追ったものだ。 テレビ情報誌記者が語る。 「毎回、ディープなテーマを取り上げる『ザ・ノンフィクション』ですが、今回の放送は特に踏み込んだものでした。 そもそもこの回のタイトルが『万引きランナーと呼ばれて』でしたし、原氏の精神病院や更生施設での暮らしぶりを包み隠さず放送。 実の兄弟を食事に誘うも、冷たく断られるというシーンもありました」(テレビ情報誌記者) カメラは、判決を聞くために裁判所に向かう家族の車に同乗し、希望通り執行猶予付きの判決が下る。 裁判後、原氏は涙を流して謝罪し、マラソン大会にも出場。 「番組のエンディングテーマ曲『サンサーラ』が流れ、一件落着かと思いきや、原氏が共同生活を送っていた更生施設で、賄いの鶏肉を部屋に持ち帰っていたことが明かされたのです。 その理由は、『私が作った料理を残す者がいて、腹いせにやった』というものでした」(同) この事実に、ネットにも、 「すごいオチ」 「治ってないやんけ!」 「まさかのバッドエンド」 と、驚きの声が続出。 「絶対また捕まるだろ、、、」 「執行猶予は完全に間違い」 といった厳しい声も少なくない。 これだけ常習性の強い原氏に、なぜ裁判官は執行猶予の判決を下したのか? フリーのジャーナリストが言う。 「当時は公表されませんでしたが、原氏は12年に初めて万引きで逮捕され、それ以降、判明しているだけで7度逮捕されています。 18年の逮捕は執行猶予中の再犯ですから、10年前なら間違いなく実刑判決を受けていたでしょう。 それでも再び執行猶予が付いたのは、『クレプトマニア(窃盗症)』について、専門家が『刑事罰よりも治療を』と訴えたことが功を奏した形です。 罰を与えるよりも、再犯を防ぐことが社会にとって有益であるという主張ですが、10年代に入って刑務所の収容能力が限界に達していたことも、そういった流れを後押ししました。 とはいえ一般市民には処罰感情が根強いだけに、注目度が高い原氏に執行猶予判決を下すことで、問題提起したかったのでしょう」(ジャーナリスト) 包み隠さず事実を伝えるという意味では、「万引きランナー」は傑作だったが、誰もが後味の悪さを感じたはず。 原氏がまた逮捕されるようなことがあれば、クレプトマニアに執行猶予を与える取り組みは間違いなく後退しそうだ。 あわせて読みたい•

次の

ルームランナーをマンション使用したい!でも騒音や振動で迷惑?

マンビキ ランナー

概要 [ ] 首都は時代や統治形態などにもよるが現在のとしていた。 マンラーイ朝出身の人物により代々統治がなされ、南方のやなどとは全く別の覇権を築き上げた。 しかし、1558年以降ビルマの覇権下に入り、徐々に完全にビルマの一部と化したが、18世紀以降、反ビルマ運動が盛んになり、1774年に南方シャムの王に寝返り、その後もの朝貢国となった。 その後、により中央集権化がはかられるまで、チェットトン王家率いる、、(これらには現在のメーホンソーン県、チエンラーイ県、パヤオ県なども含まれる)、、が半独立を維持し続けた。 ラーンナーないし ラーンナー地域と称する場合、多くの場合はの、、、、、、、などの領域を指していう。 広義のラーンナー地域は、狭義のラーンナー地域に加え、南は北部まで、西は東岸地域まで、東はメコン川西岸地域すなわちラオスの、北はビルマのあるいは中国のまで拡大して解釈される。 (大前提としてこれらの表記法はによって表記されるべきものであるが、ここでは便宜上、で表記する) 前者「百万の田」表記は、16世紀頃の碑文に見える表記法であるが、この時代の文字表記はそれほど厳密なものではなかったため、この表記法が必ずしも「正しい」とはいえない。 つまりこの古文書群に従えば、前者「百万の田」表記が「正しい」とも推測できる。 一方、後者「多くの田」表記は、初期に現れ始め、その後20世紀には多く流布し、学術書などにも見られるようになった。 以降は明確な根拠なく、学術者達によって、前者「百万の田」表記が推奨されていた。 1980年に、北タイの古文書などの研究者として知られるが、1553年にで作成されたについて調べ上げ、考察を発表した。 この碑文における「百万の田」表記の存在が決定的となって、「百万の田」表記が学会の定説となった。 これにより、 ラーンナータイ王朝とも呼ばれる。 歴史 [ ] 建国前史 [ ]• ラーンナーが大きな繁栄を見せたのは、王(1355 - 1385年)の時代からで、ラーマン派(旧ランカーウォン派)と呼ばれる仏教を保護し、スコータイから長老を招き、を建設して仏教の一代センターを作り上げた。 その後王(1402 - 1441年)の時代には、長きにわたり滞っていたラーンナーの朝貢に対して侵攻してきた ()(雲南省のムスリムを呼ぶ言葉)を追い返し、中国の覇権下から独立した。 王(1441 - 1487年)はラーンナー王朝における絶頂期の王として知られる。 ティローカラートは即位から10年間は当時独自の王国を築いていたとを図版に加え、国力を増強した。 その後、南進を進め上流のピチットを、ティローカラートに帰順したプラヤー・ピッサヌローク(ピッサヌロークの国主)とともに攻め入った。 1460年に(スコータイ自体、の覇権下にあった)の覇権下にあったチャリエン(現・)がラーンナーに帰順すると、今度はとを攻撃したが失敗。 しかし当時、ラーンナーの南に台頭してきたの王は、この侵攻にたえきれず北進を開始し、ピッサヌロークに遷都する一方、降着していた戦いを収め、ラーンナーと表面上は友好関係を結んだ。 結局ラーンナーとアユタヤの対立は1474年まで続いた。 この両国の戦いは同時代のアユタヤ人に影響を与え、この戦争の様子を描いた『』という文学作品を生み出した。 1480年、のがラーンサーン王国に侵攻し、ラオスの国王を殺した。 ティローカラートは、このときにラーンナーへ逃げてきたラーンサーンの王子パヤー・サイカーオを保護した。 レ・タイントンはこれを追ってラーンナーへ侵攻してくるがレ・タイントンは逆に敗走した。 この後パヤー・サイカーオはラーンサーン王国の王位につき、ラーンナーと強力な友好関係を結ぶ。 また、この戦いに勝利したことにより、ティローカラートは中国から報奨を送っている。 この他、ティローカラートは国内の仏教保護に努め、シーホン派(新ランカーウォン派)と呼ばれるスリランカ式の仏教を導入し、と呼ばれる寺院を建設した。 このときに編纂された三蔵はラーンナーのいくつかの派において基本経典となった。 これらのラーンナー文化の繁栄は王(1495 - 1525年)まで続くことになる。 ケーオはおよびを建設。 毎年、に喜捨するなど、きわめて精力的であった。 このため、多くの仏僧の学者が誕生し、仏教を中心とした文学、歴史、天文学などが花開いた。 一方、1523年から崩御するまで、ケーオはに出兵し敗北。 多くの権力者や、兵士らを失った。 このような人材と、人口の減少は国内を大きく疲弊させ、ラーンナーの衰退の一因を作った。 衰退期 [ ] 衰退期のラーンナーにおいては、国王の威光は衰退し、台頭してきた官吏らによる政治が行われた。 1525年の王の即位は官吏らの指名によるものである。 ケートクラオはそれまでムアンノーイという一地方の国主であり、チエンマイに政治基盤を持たなかった故に、脆弱であった。 1535年にの国主によるクーデタが起きる。 これは失敗に終わるが、1538年官吏らによってケートクラオは王位を簒奪され、ケートクラオの息子、が官吏らに擁立された。 しかしチャーイも5年間の統治の後暗殺され、再びケートクラオが擁立されるが、これも2年後に暗殺される。 その後官吏らにより誰を国王に擁立するかで一悶着あったが、結局ラーンサーン王国からケートクラオの甥に当たるを招くことで決着し、セーターティラートがルアンパバーンからチエンマイに到着するまでの間、 ()女王が代理で統治した。 1546年、セーターティラートはラーンナーの王位につくが、2年後にラーンサーンの父 ()が死ぬと、に移り住んだ。 このため、ラーンナーを再びチラプラパー女王が代理で統治したが、王位が空位になり大いに混乱を来した。 その後、マンラーイ王家はチエンマイの土地を引き続き認められるが、1564年から1578年まで女王が君主としてチエンマイを統治した後、ビルマ人 ()がチエンマイの国主に任命され、マンラーイ王家は終わりを告げた。 ビルマ占領時代 [ ] 前期 [ ] 1558年以降の占領においてビルマ・タウングー王朝のバインナウンの統治方法は、必ずしも軍事力だけに物を言わせた強権的な政治ではなかった。 帰順した国主には基本的に今までと同じ統治を認め、またメーク王も(あくまで副王()として)引き続き統治を許された。 バインナウンはチエンマイをラーンナー諸都市の支配の中心と位置づけ、多くのビルマ兵士をチエンマイに配備した。 また、旧ラーンナーのタイ族の諸都市の国主も引き続きバインナウンのもと統治を認められるが、一方で朝貢を怠ったり、命令を遂行できなかった場合、重い刑罰(主に死刑)が科された。 また、首都のチエンマイにはビルマ兵が置かれ、常時厳重な監視下にあったが、旧ラーンナーの諸都市ではそれほど影響力はなかった。 このような中、ラーンナーに帰順していた諸都市は、ラーンナーの威厳の失墜も手伝い、離反の様相を見せるようになる。 1578年、マンラーイ王家のウィスッティテーウィー女王が崩御すると、ノーヤターミンソーが王位につく。 するとチエンセーンを中心とするヨーン地域ではに擁立された(1596 - 1601年)が即位し、ラーンナーは分裂した。 1607年にはがチエンマイの王に擁立されるが、チャイティップとその取り巻きによるクーデターがその2年後に起こり、チエンマイは混乱した。 このため1614年ビルマの王が、混乱収拾のためチエンマイに侵攻しナーンの国主、パヤ・ポンスークサイをチエンマイの国主に任命した。 さらに分裂していたチエンセーンを支配下に置き、チエンセーンはラーンナーの北方諸都市の支配の中心として、ビルマに任命された国主を置いた。 しかし、パヤー・ポンスークサイは離反し、チエンマイをビルマから独立させようと目論んだ。 アナウッペルンの兄弟サールンは1631年この反乱を鎮圧、チエンマイの実質的支配に当たった。 チエンマイはサールンのもと、行政改革を行う。 チエンマイの国主としての副王(ウッパラート)の制度を廃止、代わりに「長」を置いた。 また、国主の裁判権を廃止し、枢密院や新たな裁判制度を設け、枢密院による「長」の任命を行った。 これにより、チエンマイ国主の地位は低下した。 また、農民の移動を禁止し、格都市ごとに1000人の兵力を常時駐屯させた。 これらのサールンの改革によりラーンナー地域の混乱が収まった。 後期 [ ] 1650年から1663年までチエンマイの国主であったはアユタヤに、ビルマに対する戦争を起こすための援軍を求めた。 1660年ごろ、これに応じる形でアユタヤの王がチエンマイに軍を送ったが、そのころまでに状況は変化し、チエンマイはこれに対して、ビルマの報復を恐れて、アユタヤに反旗を翻した。 このころから、ラーンナー世界はビルマの属国というよりもむしろ、ビルマの一部と見なされるまでになっていた。 ビルマがコンバウン王朝になると、ラーンナーは2分割され、1701年、チエンマイを中心とする南方地域と、チエンセーンを中心とする北方地域に分割された。 一方でラーンナーはビルマとそれぞれの国の重税により疲弊するようになり、徐々に行き詰まりが生じ始めた。 1732年、ワット・ナーヤーンのトンブンと呼ばれる僧とそのグループが、「呪術を用いる」ことで疲弊していた農民の支持を集め、初めついに集団で還俗し武装蜂起した。 結局、この反乱は鎮圧されるがこれを機に、ラーンナー世界は再び混乱する。 これに対し、ビルマ・コンバウンのは1763年チエンマイ討伐に出る。 この後、チエンマイの統治はビルマ語で「ポー」と呼ばれる、将軍が統治することになった。 ビルマ占領下最後のチエンマイの国主は、反乱をノーイプロームやの反乱を抑え込む。 しかし、コンバウン王朝は中国との戦いに疲弊しており、南に新しくできたの加勢もあり1774年、ついにチエンマイを失う。 は、チエンマイの国主に任命され、後にチエンマイの王となるはラムパーンの国主となった。 復興ラーンナー王朝 [ ] チャーバーン [ ] チャーバーンは先だって1771年、ビルマに戦争を仕掛けるが、手勢は300人程度で、ほとんど武装していない烏合の衆であり、無論負けた。 この戦いの際彼の息子は戦死している。 このころのラーンナーでは派とビルマ派で分離しており、互いにしのぎを削っていた。 この後、寮内のと共にまで行き、タークシンに加勢させ、1774年ついにチエンマイを陥落させた。 この後チャーバーンはにて、正式にチエンマイの王位に就き、トンブリー王朝の朝貢国となった。 この際、カーウィラはタークシンに姪を捧げ、また妹をと結婚させ、トンブリーないしチャクリー王朝との連帯関係を築いていた。 このころ、チエンマイは混乱と度重なる戦争で廃墟と化しており、深刻な食糧不足に見舞われた、このため仕方なく1776年ラムパーンに遷都するが、1779年、タークシン王の怒りを買って牢獄に入れられ死亡した。 後、タークシンの乱心があらわになると、が即位し、チエンマイ王にはカーウィラが指名された。 チェットトン朝 [ ] チエンマイの王となったカーウィラは、チエンマイが廃墟と化していたため、もっぱらラムパーンに住み続け、減りに減った人口の回復に没頭した。 一方、未だビルマの影響下にあったチエンセーンやケントゥンを攻撃し逃げてきた人々を保護する、あるいは強制移住させる方法で、1813年までに、ラーンナー北部の諸都市はほとんど廃墟とした。 このような方法で人口を増やす方法は、カーウィラだけでなく、後に続く王達も行った。 1796年、カーウィラはチエンマイを再建、マンラーイ朝における古い儀式を復活しを定め、仏教を保護し、寺院を建て自らの威信を高めた。 またカーウィラは、1805年にラムプーンも再建し、チエンマイ、ラムパーン、ラムプーンの国主の座を自分の兄弟達で独占した。 これによりカーウィラのはラーンナーにおけるもっとも有力な家・王朝を築いた。 その後、チェットトン王家によるチエンマイの支配は、9代続き、8代目の王(1901 - 1909年)の時代に・パヤップが成立、チェットトン家による専制支配は終了し、実質の支配下に入り、少将(1911 - 1939年)を最後に、ラーンナー王朝は終わりを告げた。 政治 [ ] マンラーイ朝のもとではと呼ばれる法典が重きをなし、国の基本法典とされ、これにより統治・刑罰・取引などが行われた。 首都はチエンマイで、ラムプーンはチエンマイの衛星都市であった。 チエンラーイは副首都でいわゆる副王(ウッパラート)が治める町であり、その他少数の、王族により治められる都市が定められていた。 任命された国主は国王から給与はあたえられず、自らの領有するムアンにおける税収から、官吏を養い、チエンマイに朝貢する運命であった。 パンナーとは「千の畑」を意味する言葉で、そのパンナーごとに国王への税収の負担が割り当てられた。 パンナーの数によってムアンの規模が決まった。 たとえばチエンラーイなどは32のパンナーがあり、パヤオは36のパンナーがあり、これらの都市は比較的大きい都市であった。 一番下位を構成する行政区分が村( )で、その長は「ケーバーン」と呼ばれた。 これらに住む下級の人民は「カー」と呼ばれる奴隷と「プライ」と呼ばれる平民からなっていたが、両方とも国主の有するものと考えられていた。 またこれらの領土や人民は国王の許可なく寺院に寄付することができた。 このようにムアンは各ムアンごとに自主性が高く、ラーンナー全体の統一性に欠いていた。 このため、国王は国主を罷免したり、処刑したりすることもあった。 また、文学や宗教を用いマンラーイ王家の威厳を高めた。 たとえば、『マンラーイの教え』は「王族でなくば王位を望むな。 貴族でなければ官位を望むな」という文章をといている。 また、寺院への寄進はしばし、国王の威厳や正当性を主張する手段として用いられた。 また、ラーンナーでは同じタイ族のアユタヤ王朝とちがいと呼ばれる複雑な絶対敬語を生み出さなかった。 これには、ラーンナー王朝がの影響を受けなかったこと、それが故にヒンドゥー式のヒエラルキーが発生しなかった。 そして、国王の名前などにヒンドゥー教の神の名(たとえば、アユタヤの など)が現れておらず、国王が現人神()と見なされることがなかったためであるといえる。 また、ラーンナー社会の規模の小ささなども挙げられる。 国王に対しては、通常の敬語を用いられることが一般的であった。 また、国王の世襲の方法は明確に決まっておらず、実力や権力、官吏ら支持者の数で決まるものであった。 特に、ラーンナーはどこにおいても人口不足気味であり、マンラーイ法典は、平民が土地を捨てて逃げ出すことを固く禁じた。 人民は一年に月1か月から4か月の間、政府のもとで働いた。 しかし、人口が極端に不足していたため、統治者側にも人民が逃げ出さないようにするための心配りが求められた。 それでも戦時などは、兵役における規則・罰則の重さを避けるため、どさくさに紛れて逃げ出す者も少なからずいた。 また、ムアンの中心には税収を増やすための市場が置かれ他のムアンとの交易が行われた。 特に官吏らがこれらの商売に参加することがあった。 また、樹脂、、、の角、(黒色染料)、(蘇木、赤褐色染料)、の角や皮革などの森林由来の製品は専売品とされ、人民から何らかの形で進上され、主にに輸出していた。 これらの専売製品や禁止物(アヘンなど)以外は、自由に交易が許されていたと推測されている。 これに対し国王は適切な取引価格を守ることを求めるのみにとどまった。 ビルマの占領により、ラーンナーは南方のチエンマイー管区と北方のチエンセーン管区に分けられた。 また、国王の秘密の監察官も派遣されている。 各ムアンにおける長はパヤーあるいはチャオファー(多くの場合シャン族の王族)が派遣されたが、ミョーウンやシトケに比べれば、限られた権力しか持っていなかった。 一方、復興されたラーンナー王朝(チェットトン朝)はチャクリー王家の属国であり、朝貢国であった。 特に森林由来の製品に関して朝貢が義務づけられていたものの、チェットトン朝は1つの王国であり、内政面では大きく干渉されることはなかった。 また朝貢国はラーンナーに限らず、どこの王朝にも義務づけられており、必用に応じてチャクリー王朝に軍隊を提供する義務を負った。 経済 [ ] ラーンナーは農業を中心とする国家であった。 建前上の話としては、ラーンナーの国土は国王のものであり、人民は国王の労働力であり、それを制のもと管理することとなっていた。 しかし、国王一人ではとても管理できないがために、官吏や寺院に領地と人民を渡し、治めさせていた、ということが前提条件であった。 国土は肥沃で、ほとんどの地域で自給自作が可能であり、村だけで社会が成立できたともいえる。 このような村社会はやその支流、、から耕作のための灌漑運河を掘り、田を耕しており、その生産余剰の多さは、雲南省のホー族におおよそ540トンもの米を朝貢していた事実からもうかがい知ることができる。 一方、国王自身も田畑を有しており、徴用で集められた人民を使い、働かせていた。 もっとも、建前上の話でいえばすべてが国王の土地であり、他人に貸しているだけであるので、強制的に「取り返す」こともできた。 ただ、平民においては、ある程度の土地の権利は保障されており、また、開墾も奨励され、開墾から3年間は免税された。 商業もまた盛んであった。 チエンマイの商人は遠くはパガンまで行ったという記録も残っている。 また、チエンマイはホー族、ビルマ人、シャン人などが訪れ、貿易の中心地であった。 また、チエンマイが面するピン川はチャオプラヤー川に通じており、アユタヤとの貿易の中心地であった。 アユタヤとは前述した樹脂、、、の角、(黒色染料)、(蘇木、赤褐色染料)、の角や皮革などの森林由来の製品は、アユタヤへの最重要輸出品目であった。 アユタヤにはチエンマイからの森林製品を保管する倉庫があった。 特に蜜については記録が残っており、ムーン・セーンナムプンと呼ばれる官僚のポストが設けられ厳重に管理されていたことが分かっており、他の品目に関しても同様であったと推測される。 この貿易により、ラーンナーは大きな富を蓄えた。 外交 [ ] ラーンナーは周のほとんどがタイ族に囲まれており、大まかに北方系のタイ族と、南方系のタイ族との交流が外交の中心となった。 むろん、元や明の朝貢国であったことも特筆すべき事項である。 北方 [ ] 北方のタイ族とはおおむね、同じ宗教、似た言語、文化を有しており、きわめて良好な関係にあったといえる。 (チエンルン)は、ラーンナーの首都がチエンセーンにあった時代には、メコン川で繋がっており、きわめて良好な関係を保っていた。 マンラーイが死に朝貢が始まると、両者の関係は密接になり、記録によればセーンムアンマーの妻に景洪出身の妻がいたことが分かっている。 また、セーンムアンマーは仏教を広め、を広め、 ()を生み出す基礎を作ったといえる。 この間にあった、(チエントゥン)はマンラーイ時代に元の侵攻を避けるために建てられた要塞都市で、朝貢後は、雲南とラーンナーをつなぐ交通の要所になった。 これらの地域は、ラーンナーの朝貢国であったが、ラーンナーが衰退期に入り国力が衰えると、チエンマイに攻め入ったりもしている。 東方のラーオ人とはきわめて密接な関係にあり、そのラーンサーン王国とは親密であった。 ベトナムの侵攻に対してティローカラートは援軍を送り、撃退しているし、ラーンサーンの王子、セーターティラートはラーンナーの官吏らの招きでラーンナーの王位に上っている。 ナーン年代記によれば、スコータイ王国とも、ラーンナー、ラーンサーンはともに親密な関係を築いていたとしている。 ラーンナーが復興されると、今度はこれら北方の町は、ビルマ側の町となり、必ずしも友好的な存在とはいえなくなる。 チャクリー王朝はラーンナー王朝に対し、景洪、ケントゥン方面への出兵を命じたことがある。 1849 - 1850年、ラーンナーは景洪の内乱に乗じ出兵しており、また、(モンクット)もビルマ・コンバウン朝が大英帝国相手に疲弊してきた1852年、親王を差し向け侵攻している。 さらに、戦況が好ましくないので1854年にさらに、をして援軍に向かわせている。 これらの侵攻は、いずれも地元のタイ族の官吏や国王などが要請したものであったが、地元の軍隊の協力が得られず結局は失敗に終わる。 これら北方に対する領土拡大はラーンナーだけでなく、チャクリー王朝にとっても悲願であったといえる。 (チュラーロンコーン)は1884年のいわゆるにより、ラーンナーにを設置するが、このころ官吏は景洪をタイの図版に組み入れようとしていた。 しかし、1885年大英帝国がビルマの侵攻を完了すると大国を相手に回す事へのためらいから、シャン族やタイ・ルー族への領土拡大はお蔵入りとなる。 南方 [ ] 南方のタイ族国家、スコータイ、アユタヤなどとラーンナーは微妙な関係にあった。 三者とも、さらに下流ので繋がっており、貿易では密接な関係にあったといえる。 スコータイは大王の時代、ラーンナーと対等な関係を結ぶまでに成長していたが、新興国家であったアユタヤや、北で勢力を拡大していたラーンナーの間で相対的に地位が低くなっていった。 また、ティローカラート王の時代にはアユタヤとラーンナーは旧スコータイの領土をめぐってしのぎを削った。 復興後のラーンナーではチャクリー王朝の時代となり、ラーンナーはビルマとの軍事的な緩衝地帯となった。 またラーンナーはチャクリー王朝の朝貢国となる。 君主・国主の一覧 [ ] マンラーイ朝 [ ] 記録によって年代に差があるため、広く認められている、博士が各種資料を批判したものを用いた。 (1261 - 1311年)• (1311 - 1325年)• (1325 - 1334年)• (1334 - 1336年)• (1336 - 1355年)• (1355 - 1385年)• (1385 - 1401年)• (サームプラヤーファーンケーン)(1402 - 1441年)• (ティローク)(1441 - 1487年)• (1487 - 1495年)• (1495 - 1525年)• (ケート、ケートチェータラート)(1525 - 1538年)• (1538 - 1543年)• ケートクラオ(2回目)(1543 - 1548年)• (1548 - 1546年)• (1546 - 1547年)• 不在(1548 - 1551年)• (1551 - 1564年)• (1564 - 1578年) ビルマ占領以降 [ ] 年代は『』による。 (注: ノーヤターミンソー以外はタイ語読みである)• (1578 - 1607年)• チョーイ(1607 - 1608年)• チャイティップ(1607 - 1613年)• チョーイ 2回目 (1613 - 1615年)• ナーンの国主(1615 - 1631年)• ルワンティッパネート(1628 - 1655年)• セーンムアン(1655 - 1659年)• プレーの国主(1659 - 1672年)• ウッパラーチャ・インチェマン(1672 - 1675年)• チェークトラーの息子(1675 -? マンレーナラー(1707 - 1727年)• テープシン(1727年)• オンカム(1727 -? チャン(? - 1759年)• ワット・ドゥワンディーの還俗僧(1761 - 1763年)• (1762 - 1768年)• (1768 - 1774年) ビルマからの占領脱出• (ブンマー)(1774 - 1779年) チェットトン朝 [ ] ソースは『チエンマイ年代記』、『』、公文書など。 年代に空きがあるのは中央政府(チャクリー王朝)の承認まで、時間がかかったため。 チエンマイ王• (1782 - 1816年)• (1816 - 1822年)• (1823 - 1825年)• (1825 - 1846年)• (1847 - 1854年)• (1856 - 1870年)• (1873 - 1896年)• (1901 - 1909年)• (1909 - 1939年) なお、ケーオナワラットの息子が死んだため、チェットトンは王家としては廃嫡になったが、男系がはチエンマイの名家として現存する。 ラーンナー史学史 [ ] が1899年『ヨーノック年代記』を編集し、出版したのが始まりとされる。 チエンマイ大学では1964年の開設時から、地域史としてこの『ヨーノック年代記』をテキストにラーンナー史の教育・研究を行った。 のち、1970年代から加速度的に研究が進んだ。 また、ラーンナー史を教える大学もチエンマイ大学だけでなく、、などが存在する。 ただ、未批判であったり一次史料もあり、考古学的調査も未完ともいえる。 ラーンナー王朝が展開した地域は、、、など多くの国にまたがっており、政治的・言語的な理由などから、これらの地域すべての地域の文献、考古学資料を網羅するのは難しい。 また、タイ国内にも未発見の数の史料()が寺院などに人知れず眠っているとも考えられている。 脚注 [ ] [] この節にはやの一覧が含まれていますが、 によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。 脚注を導入して、記事のにご協力ください。 ( 2017年9月) 概要書 [ ]• Ongsakul, Sarassawadee, History of Lan Na, trans. Chitraporn Tanratanakul, Chian Mai: Silkworm Books, Thai text 2001, English text 2005,• Penth, Hans, A Brief History of Lan Na - Civilizations of Nothern Thailand Chiang Mai Silkworm Books, 2002, 史料 [ ] 主要史料 パーリ語史料• 『』 タイ北部の史料• 『ナーン年代記』と呼ばれるもの• 『』(『』とも)• 英雄伝 シャムの史料• 『』など ビルマの史料• 『(ジンメ・ヤーザウィン)』• 『(フマンナン・マハーヤーザウィンドージー)』など ・の史料• ・などの正史やなどは「 八百媳婦國」に関する記述は上記史料の裏付けや、朝貢の記録を見る上で重要な史料となる。 欧米の記録• Grabowsky, Volker and Turton, Andrew, The Gold and Silver Road of Trade and Friendship: The McLeod and Richardson Diplomatic Missions to Tai States in 1837, Chiang Mai: Silkworm Books, 2003 - Dr David Richardson と Captain William Couperus McLeod の旅行記を収録• McGilvary, Daniel, A Half Century Among the Siamese and the Lao: An Autobiography, New York: Fleming H. Revell Company, 1912 - 再版が数多く出ている• 所蔵が所蔵する宣教師の記録など。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - ラーンナー史研究家らのポータルサイト。 地元の史料や文学、論文など。 - サイト内(チエンマイの中高等学校)、タイ・英による簡単なラーンナーの歴史。

次の