本能寺 の 変 黒幕。 本能寺の変「朝廷黒幕説」 ~ 信長は天皇にも恐れられた?

本能寺の黒幕に迫る

本能寺 の 変 黒幕

足利義昭と明智光秀の関係:将軍になるため利用 明智光秀が足利義昭の家来だった事もあり、「本能寺の変の黒幕は足利義昭だった」という説も出ているくらい、 義昭と光秀には深い関係があります。 義昭は元々は奈良県の興福寺で僧侶をしていましたが、兄で第13代将軍だった足利義輝が暗殺された事で、将軍になる事を決意しました。 しかし、当時の京都は義輝を暗殺した三好三人衆(京都近辺を支配していた三好家の重臣たち)の影響が強く、義昭も命を狙われていました。 そこで義昭は、越前国(現在の福井県北部地方)の 大名・朝倉義景を頼ります。 朝倉家は初代室町幕府将軍・足利尊氏の頃から幕府に協力的だったため、 義昭は義景が自分を将軍にしてくれると思っていたようです。 ところが一揆の鎮圧などで忙しかった義景は、なかなか京都へ出陣しようとはしませんでした。 義昭は他の大名に頼る事を考え、尾張国(現在の愛知県西部地方)・美濃国(現在の岐阜県南部地方)で勢力を拡大していた信長に、協力を求める事にします。 その時に 信長との交渉役を務めたのが、朝倉家に仕えていた光秀でした。 信長との仲を取り持ち、義昭が将軍になるために力を尽くした功績を認められ、光秀は室町幕府に仕える家臣となりました。 足利義昭が明智光秀を認めた理由・エピソード そして光秀が義昭の家臣として大活躍をし、信長にも実力を認められた事件があります。 それは 本圀寺の変という事件です。 義昭が将軍になった翌年の永禄12年(1569年)正月、信長は自分の本拠地である岐阜へ帰りました。 1月5日に義昭が寝泊まりしていた本圀寺を、信長がいない隙を狙った三好三人衆が襲いました。 この時、義昭を守って戦ったのが光秀です。 三好勢の軍が1万人だったのに対し、義昭を守る家臣はたった13名だったそうです。 それでも光秀の指揮で本圀寺を守り抜き、翌日の1月6日には京都近辺から続々と援軍が駆け付けました。 こうして、 光秀の活躍により義昭は命拾いをしました。 またこの事件がきっかけとなり、 光秀は幕府の家臣でありながら織田家にも仕える事になります。 そして光秀は、織田家の中で出世していくようになりました。 本能寺の変の黒幕は足利義昭説の根拠:密書 その後、義昭が信長により京都から追放された事で、以降の義昭と光秀には接点が無いように思えますが、なんと 本能寺の変が起こった後の、2人の関係を示す資料が見つかっています。 それは光秀が本能寺の変が起きた10日後に、反信長派の武将である土橋重治に宛てて書いた密書です。 この資料を簡単にまとめると• 光秀は義昭に協力を約束している• 義昭が京都に向かうなら、他の武将に命令があるはずだ という事が書かれています。 この、光秀が義昭に協力を約束した時期がはっきりと分かっておらず、もし本能寺の変が発生する以前から2人が連絡を取り合っていたとしたら、義昭が命じたのではないかというのが、義昭黒幕説の根拠とされています。 いずれにせよこの資料からは、光秀は 義昭を再び京都へ迎え入れて、室町幕府の将軍として復帰させようと考えていた事が分かります。 義昭としても以前は家臣として自分に仕え、命の危機から救ってくれた光秀であれば、信用してもいいと考えたのではないでしょうか。 光秀も義昭を利用するだけのつもりだったのか、本当に室町幕府自体の権力を取り戻すつもりだったのかは分かりませんが、世の中を治めるには義昭の力が必要だと思っていたのではないでしょうか。 足利義昭と織田信長の関係や理由とそのエピソード 足利義昭と織田信長がつながったそもそもの理由は何か? また、2人の関係性はそもそも悪かったのか、悪化していった理由やエピソードは何だったのでしょうか? 足利義昭が織田信長を頼った理由:室町幕府の父 足利義昭が将軍になれたのは、織田信長の協力があっての事でした。 しかし、 義昭を京都から追放したのも信長です。 義昭は信長を頼る前にも、将軍になるために様々な大名から力を借りています。 この時期に義昭が頼った大名は、室町幕府と古くから関わりがある名門であったり、幕府から役職を貰っている大名ばかりでした。 そんな中、幕府との繋がりもなく、名前が知られ始めたばかりの信長を頼った事は、義昭にとっては大きな賭けだったと思います。 永禄11年(1568年)7月25日に義昭が岐阜へ到着すると、信長は 「義昭公が住むのにふさわしい屋敷を建てる事は簡単だが、この国に長く住んでもらうつもりはない。 少しだけ我慢して欲しい。 」 と伝えます。 その言葉通り、ひと月半後の9月7日には義昭を連れて出陣し、9月26日には京都へ到着しました。 義昭が岐阜へ到着してからたった2ヶ月です。 この 非常に素早い対応が、信長に対する信頼に繋がったのだと思います。 義昭は無事に将軍職に就いた後、信長に感謝して 室町幕府の父という称号を与え、更に副将軍にしようと申し出ました。 しかし信長は副将軍という立場には興味がなく、これを断って代わりに和泉国(現在の大阪府南西部)の支配権を貰いました。 和泉国は貿易港であった堺の街を中心とし、経済活動が盛んな国だったため、ここを支配した信長は更に力を蓄えることができました。 立場や役職を重んじる義昭と、実際の利益を重視する信長という、2人の性格の違いがよく表れていると思います。 足利義昭と織田信長が仲が良いエピソード:本圀寺の変 この頃の義昭と信長の関係がとても良かった事は、義昭が三好三人衆に襲われた本圀寺の変での、信長の対応からも分かります。 信長は義昭が襲われた事を聞くと、岐阜から京都まで昼夜問わず走り続け、普通は3日掛かるはずの本圀寺に2日で到着しています。 真冬であったため、信長と共に出陣した兵士の中には凍死者も出たそうです。 そして再び将軍が襲われるような事がないようにと、信長が義昭のために建てたのが、京都の二条城です。 足利義昭と織田信長の関係悪化の理由:交渉での意見の食い違い しかし室町幕府を中心とした体制を作り、自分が頂点に立ちたいと考えていた義昭と、あくまで幕府は天下統一の道具にすぎないと考えていた信長の間には 大きな思惑の違いがあり、次第に仲が悪くなっていきます。 永禄12年(1569年)8月に信長は伊勢国 現在の三重県 の北畠氏を攻めますが、予想外の抵抗にあい、10月に和解しています。 この時、仲介役となったのが義昭でした。 しかし、 この交渉で意見が食い違ったことで義昭と信長が対立します。 これが関係悪化の始まりでした。 信長に不満を持った義昭はしばらくの間は協力関係を続けていきますが、元亀2年(1571年)頃から 各地の大名に対し、信長と対立するように勧める手紙を送ります。 これが信長包囲網と呼ばれる、 反信長連合になっていきます。 対して 信長は17条の意見書というものを出して、義昭を批判しました。 更にこの意見書を世間に公表する事で、義昭は将軍に相応しくないとアピールします。 元亀4年(1573年)2月、ついに 義昭は信長を倒すために兵を集めて戦い始めます。 結局この戦いに 負けた義昭は、京都から追放される事になりました。 しかし、その後も協力してくれる大名を探して各地を転々とし、信長に抵抗を続けていきました。 信長は結局、義昭を殺さずに追放しただけで済ませましたが、2人の関係を義昭の立場から見ると、室町幕府のために尽くしてくれると思っていた信長が、実は自分が権力を持つために義昭を利用していたと分かって、裏切られたと思ったのではないでしょうか。 そして義昭は信長を許すことができず、なんとしても倒したいと考えたのでしょう。 室町幕府の権力を取り戻したい気持ちと、個人的な恨みの両方を持った義昭が本能寺の変の黒幕だと言われるのも分かる気がします。 まとめ ・足利義昭と明智光秀の関係:将軍になるため利用 信長との交渉役を務めたのが、朝倉家に仕えていた光秀でした。 ・足利義昭が明智光秀を認めた理由・エピソード そして光秀が義昭の家臣として大活躍をし、信長にも実力を認められた事件が 本圀寺の変です。 ・本能寺の変の黒幕は足利義昭説の根拠:密書 光秀が本能寺の変が起きた10日後に、反信長派の武将である土橋重治に宛てて書いた密書です。 ・足利義昭が織田信長を頼った理由:室町幕府の父 義昭は無事に将軍職に就いた後、信長に感謝して 室町幕府の父という称号を与え、更に副将軍にしようと申し出ました。 ・足利義昭と織田信長が仲が良いエピソード:本圀寺の変 この頃の義昭と信長の関係がとても良かった事は、義昭が三好三人衆に襲われた本圀寺の変での、信長の対応からも分かります。 ・足利義昭と織田信長の関係悪化の理由:交渉での意見の食い違い 信長は伊勢国 現在の三重県 の北畠氏を攻めますが、予想外の抵抗にあい、10月に和解しています。 この時、仲介役となったのが義昭でした。 いつもたくさんのコメントありがとうございます。 他にも様々な情報がありましたら、またコメント欄に書いてくださるとうれしいです。 カテゴリー•

次の

「麒麟がくる」で大注目!「本能寺の変」原因説50を総選挙すると、2位秀吉黒幕説、3位怨恨説、4位野望説...では1位は? 「帰蝶黒幕説」はあるの?

本能寺 の 変 黒幕

足利義昭と明智光秀の関係:将軍になるため利用 明智光秀が足利義昭の家来だった事もあり、「本能寺の変の黒幕は足利義昭だった」という説も出ているくらい、 義昭と光秀には深い関係があります。 義昭は元々は奈良県の興福寺で僧侶をしていましたが、兄で第13代将軍だった足利義輝が暗殺された事で、将軍になる事を決意しました。 しかし、当時の京都は義輝を暗殺した三好三人衆(京都近辺を支配していた三好家の重臣たち)の影響が強く、義昭も命を狙われていました。 そこで義昭は、越前国(現在の福井県北部地方)の 大名・朝倉義景を頼ります。 朝倉家は初代室町幕府将軍・足利尊氏の頃から幕府に協力的だったため、 義昭は義景が自分を将軍にしてくれると思っていたようです。 ところが一揆の鎮圧などで忙しかった義景は、なかなか京都へ出陣しようとはしませんでした。 義昭は他の大名に頼る事を考え、尾張国(現在の愛知県西部地方)・美濃国(現在の岐阜県南部地方)で勢力を拡大していた信長に、協力を求める事にします。 その時に 信長との交渉役を務めたのが、朝倉家に仕えていた光秀でした。 信長との仲を取り持ち、義昭が将軍になるために力を尽くした功績を認められ、光秀は室町幕府に仕える家臣となりました。 足利義昭が明智光秀を認めた理由・エピソード そして光秀が義昭の家臣として大活躍をし、信長にも実力を認められた事件があります。 それは 本圀寺の変という事件です。 義昭が将軍になった翌年の永禄12年(1569年)正月、信長は自分の本拠地である岐阜へ帰りました。 1月5日に義昭が寝泊まりしていた本圀寺を、信長がいない隙を狙った三好三人衆が襲いました。 この時、義昭を守って戦ったのが光秀です。 三好勢の軍が1万人だったのに対し、義昭を守る家臣はたった13名だったそうです。 それでも光秀の指揮で本圀寺を守り抜き、翌日の1月6日には京都近辺から続々と援軍が駆け付けました。 こうして、 光秀の活躍により義昭は命拾いをしました。 またこの事件がきっかけとなり、 光秀は幕府の家臣でありながら織田家にも仕える事になります。 そして光秀は、織田家の中で出世していくようになりました。 本能寺の変の黒幕は足利義昭説の根拠:密書 その後、義昭が信長により京都から追放された事で、以降の義昭と光秀には接点が無いように思えますが、なんと 本能寺の変が起こった後の、2人の関係を示す資料が見つかっています。 それは光秀が本能寺の変が起きた10日後に、反信長派の武将である土橋重治に宛てて書いた密書です。 この資料を簡単にまとめると• 光秀は義昭に協力を約束している• 義昭が京都に向かうなら、他の武将に命令があるはずだ という事が書かれています。 この、光秀が義昭に協力を約束した時期がはっきりと分かっておらず、もし本能寺の変が発生する以前から2人が連絡を取り合っていたとしたら、義昭が命じたのではないかというのが、義昭黒幕説の根拠とされています。 いずれにせよこの資料からは、光秀は 義昭を再び京都へ迎え入れて、室町幕府の将軍として復帰させようと考えていた事が分かります。 義昭としても以前は家臣として自分に仕え、命の危機から救ってくれた光秀であれば、信用してもいいと考えたのではないでしょうか。 光秀も義昭を利用するだけのつもりだったのか、本当に室町幕府自体の権力を取り戻すつもりだったのかは分かりませんが、世の中を治めるには義昭の力が必要だと思っていたのではないでしょうか。 足利義昭と織田信長の関係や理由とそのエピソード 足利義昭と織田信長がつながったそもそもの理由は何か? また、2人の関係性はそもそも悪かったのか、悪化していった理由やエピソードは何だったのでしょうか? 足利義昭が織田信長を頼った理由:室町幕府の父 足利義昭が将軍になれたのは、織田信長の協力があっての事でした。 しかし、 義昭を京都から追放したのも信長です。 義昭は信長を頼る前にも、将軍になるために様々な大名から力を借りています。 この時期に義昭が頼った大名は、室町幕府と古くから関わりがある名門であったり、幕府から役職を貰っている大名ばかりでした。 そんな中、幕府との繋がりもなく、名前が知られ始めたばかりの信長を頼った事は、義昭にとっては大きな賭けだったと思います。 永禄11年(1568年)7月25日に義昭が岐阜へ到着すると、信長は 「義昭公が住むのにふさわしい屋敷を建てる事は簡単だが、この国に長く住んでもらうつもりはない。 少しだけ我慢して欲しい。 」 と伝えます。 その言葉通り、ひと月半後の9月7日には義昭を連れて出陣し、9月26日には京都へ到着しました。 義昭が岐阜へ到着してからたった2ヶ月です。 この 非常に素早い対応が、信長に対する信頼に繋がったのだと思います。 義昭は無事に将軍職に就いた後、信長に感謝して 室町幕府の父という称号を与え、更に副将軍にしようと申し出ました。 しかし信長は副将軍という立場には興味がなく、これを断って代わりに和泉国(現在の大阪府南西部)の支配権を貰いました。 和泉国は貿易港であった堺の街を中心とし、経済活動が盛んな国だったため、ここを支配した信長は更に力を蓄えることができました。 立場や役職を重んじる義昭と、実際の利益を重視する信長という、2人の性格の違いがよく表れていると思います。 足利義昭と織田信長が仲が良いエピソード:本圀寺の変 この頃の義昭と信長の関係がとても良かった事は、義昭が三好三人衆に襲われた本圀寺の変での、信長の対応からも分かります。 信長は義昭が襲われた事を聞くと、岐阜から京都まで昼夜問わず走り続け、普通は3日掛かるはずの本圀寺に2日で到着しています。 真冬であったため、信長と共に出陣した兵士の中には凍死者も出たそうです。 そして再び将軍が襲われるような事がないようにと、信長が義昭のために建てたのが、京都の二条城です。 足利義昭と織田信長の関係悪化の理由:交渉での意見の食い違い しかし室町幕府を中心とした体制を作り、自分が頂点に立ちたいと考えていた義昭と、あくまで幕府は天下統一の道具にすぎないと考えていた信長の間には 大きな思惑の違いがあり、次第に仲が悪くなっていきます。 永禄12年(1569年)8月に信長は伊勢国 現在の三重県 の北畠氏を攻めますが、予想外の抵抗にあい、10月に和解しています。 この時、仲介役となったのが義昭でした。 しかし、 この交渉で意見が食い違ったことで義昭と信長が対立します。 これが関係悪化の始まりでした。 信長に不満を持った義昭はしばらくの間は協力関係を続けていきますが、元亀2年(1571年)頃から 各地の大名に対し、信長と対立するように勧める手紙を送ります。 これが信長包囲網と呼ばれる、 反信長連合になっていきます。 対して 信長は17条の意見書というものを出して、義昭を批判しました。 更にこの意見書を世間に公表する事で、義昭は将軍に相応しくないとアピールします。 元亀4年(1573年)2月、ついに 義昭は信長を倒すために兵を集めて戦い始めます。 結局この戦いに 負けた義昭は、京都から追放される事になりました。 しかし、その後も協力してくれる大名を探して各地を転々とし、信長に抵抗を続けていきました。 信長は結局、義昭を殺さずに追放しただけで済ませましたが、2人の関係を義昭の立場から見ると、室町幕府のために尽くしてくれると思っていた信長が、実は自分が権力を持つために義昭を利用していたと分かって、裏切られたと思ったのではないでしょうか。 そして義昭は信長を許すことができず、なんとしても倒したいと考えたのでしょう。 室町幕府の権力を取り戻したい気持ちと、個人的な恨みの両方を持った義昭が本能寺の変の黒幕だと言われるのも分かる気がします。 まとめ ・足利義昭と明智光秀の関係:将軍になるため利用 信長との交渉役を務めたのが、朝倉家に仕えていた光秀でした。 ・足利義昭が明智光秀を認めた理由・エピソード そして光秀が義昭の家臣として大活躍をし、信長にも実力を認められた事件が 本圀寺の変です。 ・本能寺の変の黒幕は足利義昭説の根拠:密書 光秀が本能寺の変が起きた10日後に、反信長派の武将である土橋重治に宛てて書いた密書です。 ・足利義昭が織田信長を頼った理由:室町幕府の父 義昭は無事に将軍職に就いた後、信長に感謝して 室町幕府の父という称号を与え、更に副将軍にしようと申し出ました。 ・足利義昭と織田信長が仲が良いエピソード:本圀寺の変 この頃の義昭と信長の関係がとても良かった事は、義昭が三好三人衆に襲われた本圀寺の変での、信長の対応からも分かります。 ・足利義昭と織田信長の関係悪化の理由:交渉での意見の食い違い 信長は伊勢国 現在の三重県 の北畠氏を攻めますが、予想外の抵抗にあい、10月に和解しています。 この時、仲介役となったのが義昭でした。 いつもたくさんのコメントありがとうございます。 他にも様々な情報がありましたら、またコメント欄に書いてくださるとうれしいです。 カテゴリー•

次の

本能寺の変の秀吉黒幕説とは?中国大返しは驚異的な速さだった?

本能寺 の 変 黒幕

明智光秀はとっても愛妻家! 1528年頃に生まれたとされており、若い頃の生活は不明な事が多いのです。 最初の妻とは死別したとか。 2人目の妻 ・ 煕子 ひろこさんと 結婚。 煕子さんは、顔に痕が残るほどの 皮膚病にかかっていて、父は煕子さんに似ていた妹を代わりに嫁がせようとしました。 しかし光秀さんはこれをすぐに見破り、煕子さんを妻に向かえたのです。 そして、生涯側室を1人も持たず、 煕子さんだけを愛しています。 素敵なお話。 その後、明智家は自身の城を攻め落とされ、一族は離散してしまいました。 貧困生活の中、煕子さんが黒髪を売り生計を立てます。 素敵なお話。 良い夫婦です。 43歳頃、織田信長さんから前代未聞の 「 比叡山 ひえいざん焼き討ち」の命が下ります。 女性、子供を含む何千人もの人が殺されたのです。 信長さんはこの頃から 「魔王」と呼ばれ始めます。 ほんと絵に描いたような魔王ですね。 45歳頃、室町幕府が滅亡し、光秀さんは信長さんの正式な家臣となります。 室町幕府頃には、光秀さんは将軍家である足利氏の家臣でもありました。 55歳頃、ついに 「本能寺の変」を起こしてしまいます。 その後、 「山崎の戦い」で 羽柴秀吉 はしばひでよし ) のちの 豊臣 とよとみ )秀吉 さんに敗戦。 本能寺の変からわずが11日後に亡くなってしまったので 「三日天下」と言われちゃいました。 「本能寺の変」、5人の黒幕説! 天下人・豊臣秀吉説。 本能寺の変の時、秀吉さんは中国地方の毛利家と戦っていました。 既に勝利を手にするところまできていましたが、最後は 「信長様にとどめを!」ということで中国地方まで信長さんを呼ぶことにします。 しかし、その途中の京都・本能寺で信長さんは謀反に遭われてしまったんですね。 信長さんの死を一早く知った秀吉さんは、 「 中国大返 ちゅうごくおおがえし」を成功させ光秀さんを討つ事に成功したのです。 大軍勢が 約200kmの距離を10日で駆け抜けます。 武器・武具は船で運ばせ…。 この用意周到さが怪しさを際立たせますよね。 一番乗りで舞戻り光秀さんを倒し、信長さんの家臣の中での地位を不動のものとし、そのまま 天下人まで上り詰めたのです。 次の成功者が怪しいというやつですね。 織田信長の正室・濃姫説。 15歳の時に信長さんと結婚。 政略結婚であったとされています。 しかし2人の間には子供が出来ず、側室が跡継ぎを生んでしまうのです。 正室なのにほったらかしにされちゃうんです。 こんな仕打ち、女性は怒っちゃいますね。 光秀さんとは従兄妹の関係であり、信長さんを討って欲しいとお願いしていたのかも? 濃姫さんは正室であったにも関わらず、 信長さんの葬儀に参列していないのです。 恨みがそうとうやばそうですね。 天皇などの朝廷説。 朝廷と信長さんはあまり仲が良くありませんでした。 信長さんが言うことを聞かないから。 本能寺の変の数日前、朝廷の面々がいる場で 歌会 うたかい )が開かれました。 その歌会で、光秀さんは 「 信長さんを討つ事を連想するような歌」を詠んだといわれています。 朝廷側も 「期待してますよ。 ホホホ」的な歌を詠みました。 単純に光秀の恨み説。 光秀さんの信長さんに対する恨みは数知れず。 ・母親を信長さんの裏切りで殺されています。 ・酒が飲めないのに刀を口元に突き付けられ無理矢理に飲まされる。 ・「 禿 はげ )!! 」と怒鳴られる。 光秀の字を2つ足すと「禿」になるから。 信長さんの洒落。 どんな洒落? ・信長さんの城に家康さんを招いた時、光秀さんが考えた献立の魚が腐っていたと怒鳴られる。 これの本当の意味は、 「 家康になぜ毒を盛らなかった?」という意味で怒鳴られたという説もあります。 光秀さんは家康さんを助けたのか? ・まだ敵の領地であったのに、その場所に国を変えさせられた。 戦って奪い取ればいいじゃないかと言わんばかりに。 もうここまできたら嫌がらせですね。 明智光秀は生きていた!? 光秀さんは 「山崎の戦い」を生き延びており、徳川家康さんの側近・ 天海 てんかい )となったという超有名な話がありますよね。 その大きな理由には、家康さんのお墓がある日光東照宮には光秀さんの家紋が随所にあるのです。 さらに、日光東照宮の傍には 「 明智平 あけちだいら」という天海さんが名付けた場所があります。 由来は 「明智の名を残したいから」という。 意味深です。 光秀さんが亡くなった後に、比叡山に光秀さんの名で石碑が送られています。 これはもう生きてますね。 光秀さんが以前使えていた主君の娘が、徳川3代将軍・ 徳川家光 とくがわいえみつ )さんの乳母となり、その乳母が後に天海さんに会ったときに 「お久しぶりです」と挨拶を交わしています。 ちょっと怖いです。 名前の共通点で言えば、 光秀の 秀は2代将軍・徳川 秀忠 ひでただ、 光秀の 光は3代将軍・徳川家 光、 4代将軍・徳川 家 綱 いえつなは光秀の父・ 明智光 綱 あけちみつつなから?めっちゃ怖いです。 明智光秀の子孫は 坂本龍馬 さかもとりょうま )!? 幕末の英雄・ 坂本龍馬さんは、 光秀さんの子孫だったという説があります。 共通していることが数多く。 「山崎の戦い」の後、 明智左馬助 あけちさまのすけ )さんというお方が、四国・ 土佐 とさ ) 高知県 まで落ち延びています。 そして時は江戸…。 坂本家と明智家は 同じ家紋。 升があるかないかの違い。 坂本家がのちに酒屋を始めたので家紋に升を加えたのではないか? 光秀さんのお城は 「坂本城」です。 明智の名は使えないので坂本姓に変えたのでは? 光秀さんは 「亀山城」というお城も造っていて、そして龍馬さんの作った会社は 「 亀山社中 かめやましゃちゅう」。 龍馬さんも 「自分は明智光秀の末裔だ!」とよく語っていたらしいのです。 訪問ありがとうございます。 新しい記事をどうぞ• よく読まれている記事です• 35,301件のビュー• 33,445件のビュー• 32,145件のビュー• 32,126件のビュー• 30,042件のビュー• 21,976件のビュー• 18,828件のビュー• 18,409件のビュー• 16,491件のビュー• 14,212件のビュー カテゴリーから探せます• アーカイブ• メタ情報•

次の